身障者スペースに平然と駐車する「何か」が違う他者と共存せねばならぬ社会の悲劇。

公共施設、商業施設、

その経営母体に関わらず

車で人が集まる場所には

必ず身障者用の駐車スペースが

入り口付近に必ず設置してある。

 

そのスペースにはこれも必ず

大きく車椅子マークが記してあり

それは決して「見落とし」がない。

 

筈である。

 

場所によっては

その上、ポンツーンまで立ててある。

「当然」私ら健常者は停めてはいけない。

その賛否はともかく

良識以前の問題であることは間違いない。

 

現実はどうであろう。

この日昼食を買いにコンビニへ行った。

時間が時間であり

店の前の駐車スペースには空きがなかった。

身障者用のスペースは空いていた。

仕方がない。

結構離れた場所に駐車して

歩いて店に向かうと

空いていたはずの車椅子マークの所が

埋まっていた。

買い物を済ませ店を出ると

買い物中に出会ったおばさん二人組みが

身障者用のスペースに

停めてあった車に乗り込んだ。

その車には身障者を表示するカードは

見当たらない。

 

良く目にする光景である。

それをことさら出向き

諫めようとは思わない。

 

なんとも表現しようもないものの

基準が違うのであるから

行動を起こしたとしても

「うるせぇオヤジ!」

となるだけであろう。

 

しかし考えるのである。

先日遭遇した交通事故

なんの躊躇いもなく信号無視して

交差点に猛スピードで飛び込んで行く。

その感覚と似たものを感じる。

 

「相手が避けるだろう」

多分そうだったと思う。

 

アイキャッチの画像もそうである。

中央郵便局のそのスペースに

ケータイ片手になんのためらいもなく

他が空いているにも関わらず

極当たり前の如く停めて

その営業マンは局内に消えた。

 

一旦事が起こったとき

それは相手にとんでもない悲劇を与える。

 

先日の事故がそうであろう。

あの場合

セナであろうがプロストであろうが

ハミルトンであろうがロズベルクであろうが

避けることは出来なかったであろう。

 

車を停めるスペースに代表される

「何か」の基準の違いを持つ人と

関わらざるを得ない社会の悲劇である。

 

「何か」とはなんぞや。

一つ「俗」な言葉で例を挙げるとするなら

民度とも表現される事がある。

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