承認欲求と自己否定を「対」で考えてみた。焼き芋を発端として。

承認欲求。

 

誰しも当たり前ですが持ってらっしゃる。

現在のSNSはその過ぎたるものと

私は捉えています。

が、

あの状況はチト問題ですが

仕事でも家庭生活でも

一々、反発されたり自論を否定されりゃ

そりゃ面白くない。

 

会社、社会においては

真剣勝負。

お互いの我と言いましょうか

会社や自分の利をかけて

本当に「勝負」。

しかし事、その結果においては

黒白つくのですから

間違ってりゃ正せば良いのでして

正しければそのまま行けば良い。

 

仕事と言いましても

その職場環境における人間関係で

みなさん結構苦労する様子。

 

そりゃそうでしょう。

100人いれば100通りの考えがあり

個性がある。

馬の合う人もいれば

合わない人もいる。

 

それに横の部署が絡み

職責の上下関係が絡みで

一言で仕事と言いましても

利の追求だけ

させてもらえる訳ではないのであります。

 

そこで問題となるのが

例えば、

隣に自己主張の強い人がいる。

例えば、

思うに使えない上司がうるさい。

そらもうストレス満載ですね。

その原因を考えてみますと

「承認欲求」を満たしてくれない。

となるのであります。

 

プレゼンすると、

わかってもいない上司から

全然見当違いの危惧を真顔で言われる。

等々、探せばキリがない程、

巷にはストレッサーが溢れているのであります。

 

これが毎日ですと本気でキツイ。

だって人間の本能に近い所からの

欲求を否定されるのですから。

それもノータリンのアホから。

そら自尊心ちゅうものもありますし。

 

「お前に言われたくねぇよ!」

 

ですね。

しかし組織でありますから抗えない。

余りにそれが続きますと

今度は自己否定とつながって行くのであります。

 

これは心理学者ではない
素人の私の考えですからね。
鵜呑みにされない様に。

 

自己否定とは自己肯定の裏返しでありまして

時と場所さえ間違えると誰方さんにでも

ヒョッコリと両面顔を出すのであります。

 

概ね自己否定とは、

その個人史に原因があると

私は考えています。

つまり幼少期からの「育ち」ですね。

親がどう子供に接してきたか?

それが後々、時限爆弾の様に

遥かな時を隔てて

顔を出してくるのであります。

 

子供の頃

本当にガキの頃

「褒められる」

もしくは

「認められる」

をされなかった育ちですと

自己否定が顔を出す確率が

高くなると考えます。

 

その逆の「自己肯定」は

人間をやって行く上で

そりゃもう大事なものでありまして

これが欠落すると

過去の悪しき呪縛から抜けることなど論外

これからの人生に影を落とす、

あるいはこれからの人生の可能性を

自ら潰す結果となってしまいます。

 

「俺って、やっぱダメじゃん」

ですね。

本当はダメじゃないのよ。

 

で、今日のお題。

「焼き芋」

 

若い頃はともかく

ここ近年「焼き芋」を好んで食べます。

美味しいですよね。

 

美味しい芋に当たれば。

 

で、昨日の昼間

焼き芋買って来たのよ。

家内は同じ階にいますので

一緒に食べました。

 

さて

と皮を剥き

 

が、彼女はいきなり蔕を取ったらパクっ。

彼女の食べ方は変わっています。

なんと皮ごと食べちゃう。

 

更に逆に言うことが奮ってる。

なんと私の食べ方がおかしいと曰う。

ここでまず一発目の否定。

だって焼き芋の皮なんて美味しくないじゃん。

 

ねぇ。

 

そら食べ方は個人の自由ですから

あれやこれや言う筋合いではない。

しかし人の食べ方にイチャモンつけるのは

如何かと。

 

食べながら

「戦時中ってさ芋ばっかだったんだろうなぁ」

と私がほざけば

「こんなにいっぱい食べられる訳ないでしょ」

「それに甘い芋なんてあるはずがないでしょ」

 

わたしゃね

「そうねぇ」

の一言が彼女から返って来れば

それで良かったのよ。

贅沢は言わない。

 

逆に思いますよ。

「アンタ、根性曲がってるよ!」

ねぇ

そう思うでしょう?

「そうね」

とひとこと言えば

私の心にさざ波など立たないのに。

 

家でもその調子で

私が口を開く度に「なんで?」と

首を傾げたくなる様に

素直に

「そうねぇ」

が出てこない。

 

そうなりますと私の方が変調をきたします。

「どうせ何言っても」

とか

「どうせわたしゃアホですよ」

となってしまう。

 

私の過去を振り返りますと

 

我が母は良く他人と比較しておりました。

で、良く叱られる。

 

一番叱られたのはやっぱり成績でしょうか。

「〇〇ちゃんはあんなにできるのに!」

と言われましても

私も別に故意に手を抜いていた訳ではないのです。

こればっかしは仕方がない。

 

それを結構な年月やられまして

すっかり世のスタンダードは

その「成績」で決まるものだと

刷り込まれていたのですね。

 

「ある意味」

それは正解な部分もありはします。

 

結局私の中には学業に対する

コンプレックスが残りまして

何かの弾みにヒョイと顔を出す。

それを隠す為にひたすら本を読む。

お陰さんで

 

「賢いフリ」をするのは得意になりましたよ。

 

そこでだ

自己肯定を自分でする。

言い方を変えれば

「自己を解放する」

これはどうすればできるのか?

そこに考えが到るのであります。

 

思うに他者と比較するから

おかしな塩梅になるのでありまして

自分でやれたもの

考えたものを自ら認めてあげる。

にはどうすれば良いのか?

 

突き詰めますと

わたしゃ「気にし過ぎる」。

 

世の中には

「エッ!?」

と驚かされる人が多いのですから

他人にどう思われようが

「知ったこっちゃない」

で持論を展開するが一番。

 

かも知れない。

 

だってさ

ズケズケもの言われて

こちらがストレス抱える訳でしょ。

だったらこっちも

ズケズケ言って良いんじゃないかな?

 

相手の反応を気にするあまり

ついつい遠回し?

遠慮?

自分を出すことなく完結する。

そんなことが多かった気がする。

 

自分を解放するには

厚かましく自己主張するが一番。

自分を主張してそれに相手が反応して来れば

それにまた反応しかえせば済む事ですね。

 

と言いますか

みなさん自己主張されて

こちらがストレス抱えるのですから

それが「普通」なのかも知れない。

 

で、ついでに「承認欲求」も満たされる。

自動的に。

 

これについてはまだ考え中なので

いずれまた書きます。

 

明日からは2月。

 

2月は忙しいですね。

私は子供の卒業式。

それに二次試験。

金もかかればハラハラドキドキも続く。

心休まるのはいつかしら?

 

ところで今日は私

誕生日ですのよ。

「自分の誕生日を自分で祝うは大事な事」

って誰かから聞いていたから

せいぜい今日はハッピーに過ごします。