概ね30歳で知の吸収は終わり、それから先はその応用なのだそうだ。

ある方が仰っていました。

 

「知の集積は概ね30歳まで」

 

「それから先はその応用である」

 

なんとなくガッカリする様な

しかし納得の様な。

どうも座り心地があまり良くない。

 

で、考えて見ました。

「知の集積」とはなんぞや。

「知識」ではなさそうな感じ。

 

思うに

柔軟な、脳が旺盛な時期に

読んだもの

見聞きしたものを

一種の「偏見」を持って

世間を見回す印象が

後の考え方を左右する。

であるから

その対象の選び方は後を左右する。

 

と、解釈するのかな?

 

確かに言われた言葉は矛盾する。

だってさ代表的な例で言えば

ITの技術とか日々進歩でしょ。

疎い私でさえも

この様にブログも書きゃ

プラットフォームが

ワードプレスだったりする。

フォトショップから始まり

画像加工技術も

現在では数あるソフトの中から

自分に適した物を使い

SNSに上げたりしている。

 

そうそう

スマホなんて私らの若い頃にはなかった。

けど今どうだろ。

過不足なく使っている印象はある。

 

てことは

知識は30才超えてからも

容易に習得できるし

それを使う事ができる。

では冒頭の言葉は間違いなのか。

 

いや

あれを全否定することは

とても難しい。

 

と思う。

 

知識とは違う位置に知が存在している。

 

と解釈するから。

 

いや

そんな気がしているから。

 

「知識」と「知」はラップする部分はあれど

「知」から派生する「知性」。

これは明らかに違う。

 

思い返せば

なぜ私が私でいられるのか。

その根っこには

若かりし頃の知見と

他人との交わりがあったから。

それは間違いなく否定はできない。

 

それらが

後の私のものの見方を決定づけた。

 

他人とは違う何かを求めて。

 

これは全ての人に言えることではあるが

価値観はどうだろう。

一見違っている様に見えて

実は大半の人のそれは概ね

似たり寄ったりではないだろうか。

 

と、考える私の娑婆を斜めに見る習性も

実は中学、高校時代にその根っ子がある。

 

先進的な思想にまずかぶれ

それからその内容を理解に入る。

 

まずは全然中身のない状態から

だんだんと中身を詰めて行く。

そしたら文字から受ける印象とは異なり

正確な意味は違っていた。

 

中身と以前から思い込んでいた

表層的な部分が違っていることは常。

 

で、

それを自分なりに曲解して

完結させる。

 

なんだ

全然変わってないじゃん。

 

おまけに言わせてもらえば

使っている「言葉」

つまり単語ね。

それすらもあまり変化がない様子。

 

結論。

 

俺って進化してない。

どころか

尖っていたせいで

とても社会で生きるのが

下手に成り下がっている。

何事にも「促成」は良くない。

地味に

地道に知性は積み上げて行くべきである。

それこそ

 

「蚕が桑を喰む様に」

 

しっかりとレンガ

いや石造りで土台を固めた人には

社会的にも鋭角だった開きが

垂直ほどの違いを産み

話をしても基礎から学んだ

学究の徒にはすぐに化けの皮を剥がされ

そしていい年こいた「大人」としても

到底敵わない。

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