「自信がない」と言い訳するは、誠に不遜である。

今ウインブルドンの男子決勝を

観ながら書いているのであるが

自らの勝利を疑う事など微塵もなく

この禿げたセンターコートに

二人は立ったのであろう。

その根拠は当然

自身の成長と可能性を信じているから。

 

一昨日、東京と福岡からお客さんがあった。

 

用件は仕事だけど

話を聞きながら

「俺にできるのだろうか?」

 

まず不安が最初に頭をもたげる。

 

まとめるには幾多の困難が待っているのは

間違いない。

 

一夜明けて、

寝たのかどうかわからない夜を越し

出勤しながら

朝からフロントガラス越の夏雲を見ながら

考えるともなく考えていた。

 

思い返せば

若い時から何事にも確たる自信もなく

逃げ回っていた感はある。

 

学生時代に知り合った家内と

良い加減結婚しないといけない月日が流れていた。

しかし、その時を思い返せば

結婚して「家庭」を維持できる

男としての自信がなかった様に思う。

 

で、ノラリクラリと答えを先送りしていた。

家内の母から

「猫の子じゃないんだから!」

とお叱りを受け

踏み切ったことを思い出す。

 

結婚したら今度は子供の問題が

当然持ち上がる。

しかし、その当時の私には

「父」として背中を見せられる男では

ないと妙な自信すらあり

子供を、これまた先送りした。

 

結婚して良い加減月日が流れ

仕事が面白く

そこで妙に自信がついて行ったのを覚えている。

 

そうなると

私って勝手なもので

「こんな楽しい人生を伝える相手がいない!」

と今までとは打って変わって

子供のいない我が身を嘆いた。

 

そこから今度は妊活に邁進したのであるが

子供が出来たら出来たで

子育てがこんなに楽しいものとは

全くの想像外だった事を思い出す。

 

しかし世の中はそう甘くない。

 

子供が出来た頃から

仕事の歯車が狂い出し

その他にも

全くのこれまた想定外の大事件が起き

今の憂き目にあっているのである。

 

過去は消す事が出来ない。

また書き換えることもできないのは

当然であるから

現状で最善の道を歩くしかないのである。

 

それでも時間は平等に流れ

親の要らぬ心配をよそに

子供はしっかり自我と能力を自ら形成していく。

 

すべからく

「自信がない」

と言い訳するは

逆に大変不遜であり

他者を信頼できぬ自身の未熟に起因する。

 

子供もそうである。

私が未熟でも家内を信頼すれば良いのであった。

お互い補完し合うことを躊躇する所に

その不遜は顕れていたと思う。

自身と他者を同列に扱う。

 

周りに対して配慮に欠け

自分勝手だったのである。

さらに、自身の成長を

自ら疑っていたのである。

 

遠き慮りなくば

必ず近き憂あり。

 

昨日の話を足元しか見えぬ自分を戒めながら

遠くを見据え、この重い腰を上げようかと

思う今日である。

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