母の財布から思い出される我が家の暗黒の歴史。その11

正直なところ

このタイトルの件は書き始めた頃

「ちょいと整理しておくか」

程度の軽い気持ちでした。

書いてるうちに止まらなくなったのです。

 

読む人に短文で

伝える技量の未熟を痛感します。

 

しかしつらつらと

思い出してしたためていますと

また腹が立って来て

今頃になって、

再度トラウマになりそうでもあります。

 

私は最初に始めた事業を整理しました。

支店も展開して

設備投資もかなりしていたのですが

時代の波、デジタルに押され

業績も年々芳しくなくなっていました。

整理を始める前に

次の事業に着手しておりました。

一気に人が増え、

と言っても知れてますが、

そちらの人間関係を築くのに精一杯。

その業界で食って行くのに

疑問を持ち始めておりました。

従業員の使い込みも発生して

自分の管理能力にも自信が持てなくなり

精神的にも消耗、

しかし子供も小学校に上がっており

歩みを止める訳にはいきません。

 

そんな折、

友人が持っていた海外の政府とのつながり。

それを知った時、

ある計画が私の中に芽生えました。

「それ、俺にやらせてくれないか。」

今までにない全く違う分野です。

 

大まかなプランを話し合い、了承してもらい

実行部隊とし着手したのです。

やっていた事業と並行して。

 

全体を見るに

「これは地方では無理だな。」

と判断。

私のあらゆる人のつながりを手繰り

一人で複数の東証一部の老舗大会社に

「銃剣突撃」を繰り返しました。

 

今思い返すと

「良くやったよね。」

の一言。

 

気持ちは「突撃」を繰り返しているうちに

通じるものではあります。

もちろん友人たちの尽力の賜物です。

 

部長から役員

それから社長とお会いすることが叶い

時間をかけ信頼され

許可を頂き書面を交わして

準備が嘘の様に進んで行ったのです。

東京に友人が多かったのが幸いしました。

 

勢い東京が一番多かったのですが

海外も含め出張が桁違いに増え

まだ結果としての業績はないものの

その過程に

「やりがい」を感じておりました。

だって「どこの馬の骨」ともわからない奴が

大会社のエライ人と大立ち回り

また外国の政府関係者と

深くお話しできたのですから。

「愉快」の一言。

 

最後の残った難攻不落と思われた会社から

「わかったよ。」

と電話をもらったのは

博多での商談の帰りの車の中でした。

思わず

「バンザイ!」を叫びましたね。

 

みなさん良くご存知の会社ばかり。

スーツは着ているものの

ロン毛の「怪しい」奴が

役員やら社長の元に度々現れるのですから

さぞかし社員さんたちも

不審に思われた事でしょう。

 

その計画はやんごとなき、

ある事情で頓挫する事にはなったのですが

やって来た事への自信は

こうやって書いているうちに

また漲ってくるのを感じます。

たった今も思うのです。

「俺もやればできるじゃん!」

 

その頃でしたか

母からまた一本の電話がありました。

今度は少し内容が違っていました。

と言いましてもいつも通り

常識的な内容ではありませんでいたけどね。

「博多の姪はもう姪とは思わないから

あんたも付き合いをやめて。お願い!」

博多のネェちゃんの事です。

 

普通じゃありませんよね。

だってネェちゃんと私は何の確執もないし

私には近い親戚。

それに彼女、全くブレない人格の持ち主。

母がまた何かやらかし

思い通りにならなかった事だけは

容易に察せました。

 

どうせ正直には言わないでしょから

適当に返事をしながら終わらせ

速攻、

博多のネェちゃんに電話をしたのです。

 

そこで明らかになった

またまたおバカ。

これが最後だったとは思うのですが

いや思いたい。

つくづく何が飛び出すかわからない

ワンダーランドではあります。

 

つづく。

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