「見える人」成功者は一握りである事実。

世で「見える」人は成功者である。

 

当然であろう。

成功しているから見えるのである。

失敗していたら

当然、

「見えない」。

 

国を動かす体制の最たるもの

官吏においても

見えたら成功である。

「成功」するには当然ながら

相当な頭脳が必要である事は

申すまでもないが

その査証として「見える」学歴が必要であり

他を圧倒するものが要求される。

であるから

その人数は極々限られる。

 

「見える」ものを持たざる人が

「見える」ものを持つ人と互して

「見える」人になる為には

尋常ならざる努力と運を必要とする。

 

であるから

それは中学高校から

スタートが切られており

大多数の人には無縁である。

 

現代の「成功者」として注目される

 

ネット社会ではどうか。

 

サイトでもブログでも

エンジニアでも

ネットの成功者は多い。

 

様に思う。

 

これは大変な思い違いである。

使い古された言葉ではあるが

ネット社会である。

スマホまで入れてカウントすると

その裾野は想像以上である。

ハンパな人数ではない。

その海とも思える世界で

「見える」人は

とてつもなく少数である。

 

その「見える」人たちが囁く。

 

「こうすれば上手く行く」

 

ネットは自由な社会である。

学歴も職業も宗教も

国籍さえもこだわりはない。

であるから

 

多くの人は錯覚する。

 

「私にも出来るのでは」

と。

 

これは大間違いである。

さらに申せば

その錯覚を起こさせる力があるかないか。

それも派手に。

この差は大きい。

 

錯覚を起こした人がお金を払い

錯覚を起こさせた人がそれを頂く。

単純な仕組みではある。

 

知識はどうにか詰め込めば

何とかなりはする。

しかし文字、映像で

人を踊らせる事ができる人は稀である。

誰しもに備わったものではない。

 

もちろん

ペンがラップトップに変わっただけの

昔ながらの物書きも存在はする。

それは「実力派」として認めはするが

存在は地味である。

 

そして両者とも修練を積んでも

どうにかなるものではない。

 

「派手な」その成功者も

いつまでも成功者ではない。

「今」成功しているのである。

それが未来永劫に続くものではない。

それは良くわかっている筈である。

激流の如く速い流れの娑婆であるのだから。

同じお金の還流システムが通用する

社会ではない事は百も承知である。

 

成功者ならではの苦悩があるのである。

 

しかし微塵もその気配を出してはいけない。

なぜなら

錯覚を起こして

対価を払っていた人たちが

「現実」に目を覚ましてしまうから。

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