超高齢の母が入院した。しかしそれは過疎地の病院にとっては日常である。

母親は昨日入院した。

 

私は現在、非常に立て込んでいて

すぐに駆けつけることは

現実的にできない。

 

これを世の人は

「親不孝」と呼ぶのかもしれない。

 

が、実際

行けない現実がある。

 

当然気にはなる。

であるから

病院に入院した昨日電話して

様子を聞いた。

看護師さんが初めに電話に出たが

病状については教えてくれない。

判断できないし

してはいけないのである。

それを説明できるのは医師だけである。

流石にいくら田舎の病院と言えど

そこはしっかり守られている。

 

折り返し医師から電話させると

告げられ

かかって来た。

丁寧な対応である。

現状とそれにどんな対応をしているか

さらにこれからどんな対応をするのか

それらを明るく説明してくれた。

「今日の明日の問題ではない」

とは言ってくれたものの

 

「何しろ高齢ですから」

 

と最後に付け加えるのは忘れない。

もっともである。

 

あけて翌日

容体を聞こうと病院に電話した。

 

病棟の看護師さんにつながり

様子を聞けば

バイタルしか教えてくれぬ。

熱は一応下がってはいた。

「昨日より良いみたいですね」

と問えば

「それはわかりません」

とにべも無い。

 

「熱は今はありません」

としか言ってくれない。

「そして病状については医師から」

と言われたが

流石に昨日の今日で

医師に電話をお願いすることは

ためらわれた。

 

確かに今に至るまでの行状から

敬愛やら尊敬とは程遠い母である。

しかし当たり前だが

 

この世に一人しかいない母である。

 

心配しない子供などいない。

 

口では何とでも言うが

実際、現実が差し迫ると

人間、本性が出るものである。

心配で仕方がない。

 

その気持ちを看護師さんに

解って下さいとお願いするのは

到底無理であろう。

 

なぜなら

田舎の大きな病院である。

過疎が極端に進んだこの地域では

高齢者のこの手の話は

日常茶飯事である事は容易に察せられる。

 

多分、看護士さんの機械的な反応は

その日常がそうさせるのであろう。

 

その日常に埋没させられる母親が

不憫ではある。

 

確かに私らと周りを振り回しぱなしの

とんでもない母親ではあった。

しかし差し迫りつつある時系列が

私の心情に訴えかけて来て

変化をもたらしつつあるのも実際である。

 

言葉は違うが

昨日と同じ結論である。

 

人をして心底感嘆せしめる人間像とは

遥かにかけ離れた人生を私は送って来た。

今回の超高齢の母親の入院に際し

対応する側の態度を見るにつけ

凡庸たる私は長生きはしてはいけない。

 

今、心底そう思う。

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