「人格」は「運命」となる。

大仰な言い方であります。

「運命」と申しましても

 

色々とございます。

国の運命、会社の運命

家族の運命、個人の運命

ベートーベンの「運命」。

 

大方の人に尋ねます。

「あなたは運命を信じますか?」

すると大方の人は答えます。

「信じません。自分で開いていくものです」

 

アッサリ申し上げて

それは本当だと私は考えます。

 

誤解のない様に説明しますと

人間の生きて行く過程が

誰かから

天からでも良いし

神様からでも良いし

宇宙の真理からでも良いのですが

あらかじめ決められており

それを「運命」と呼ぶのなら

それは「違う」と私も言いたい。

 

この場合個人の運命の話であります。

個人の集合体が社会でもありますから

大きな意味で言えば

「個」が影響した社会の運命かも知れません。

 

この数日間に書いた「考える」

これから始まった一連の流れで

 

「人格」が形成された個は

 

良しにつけ悪しきにつけ

他者の評価は決まります。

し、形成された習慣と人格は

それが予定通り乱される事なく

前進することを快く

また当然と受け取ります。

よしんば、多少の障害があろうとも

それを乗り切って行くのであります。

 

そしてそれは同じ類の人たち

集団なり属するものに

囲まれる状況を作り出します。

それは「ゆるい」ものから

縛りが「キツイ」ものまで様々。

同じく集団から離れた個人の生活においても

やはり同じ様な環境に恵まれる。

 

そしてその環境が是なのか否なのか

当人にはわからない。

しかし「考える」から始まった一連の流れで

日常を過ごし「人格」が形成された人には

それなりの道が開けていると

私は確信しているのです。

実にその人格あればこその

その環境なのです。

 

「人格」が「運命」を作る。

その点では

 

「自分で運命を開く」

 

は誠に正解と考えます。

 

子供の頃から

「考える」癖をつける。

その時点で

「運命」は既に

そこに存在しているのです。

 

漫然と、しかし

後々自分の進むべき道

望む人生を見つけた時

なぜそうなったのか。

人はあまり考えません。

なぜ自分の周りにいる友人たちが

彼ら彼女なのか。

なぜ奥さんがその女性なのか。

なぜこの男性が夫なのか。

それらは別に「考える」習慣を持たずとも

必然として周りに存在するでありましょう。

憲法に保障された権利が

見事に機能している我が国ですもの。

 

しかしこれまで書いた流れで

「人格」を持ち得たとするなら

それが認められ

また吸い寄せられた環境に囲まれているとするならば

漫然と流れで生きて来た人生と明らかに違います。

それは自分の人生を自ら切り開いたのです。

しかしそれは子供の頃から予定されていた。

 

それをすなわち

私は「運命」と考えるのであります。

お粗末。

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