「考え」は「言葉」となる。

昨日書いた様に

「思う」と「考える」は違う。

では「考える」もしくは「考え」を

どうするのか。

内に秘めていても

それは何処かで伝える、

発表しなければ

当然他者には伝わらない。

 

つまり「言葉」にする。

 

日本には「言霊」なるものがありますが

ご案内の通り

言葉には魂が宿るのであります。

よしんば

魂は宿らないにしても

自分から発せられた言葉は

「私」として他者に伝わります。

結果

自ら発した言葉により「私」が

縛られるのですね。

自らが自らに責任を科すのです。

 

もっとも

それは「恥」の概念のある人に限られます。

「昨日言ってた事と違うやん!」

と誹りを受けても

痛くも痒くもない人は

自分の言葉に縛られる事などないのです。

有り体に申せば

恥の概念のない人が

他者から、社会から信用を得て

願いが叶う事は稀でしょう。

 

万が一、自分の考えたことが

違っていた場合、良く世間ではある事ですが

何もそこで意固地になって

我を通さずとも良いのです。

素直に間違いを認め

考えを組み組み立て直し

新たな「自分」として伝えれば良いのです。

そして今度はそれが「私」として

他者に認知される。

間違いを素直に認めた

思慮深い人間である事も当然含めて。

 

これが感情だけで言葉を発すると

他者からはその度ごとに

違った印象を与え「考え」のない人

と受け取られかねません。

 

伝え方にも色々あります。

 

声が大きく、力説される方。

その逆で言葉数は少なく

また静かな語り口であっても

その深さに驚嘆させられる方。

色々おいでです。

 

一番良くない言葉の発し方は

自分に取ってそれほど大切でもない人と

仲良くしようとして相手に迎合する

また相手の耳障りの良い言葉を発する。

これは実にまずい。

 

後に自分の描いた結果とは全く違うものが

出現するのも当然ですが

過程において

また結果において

重大な迷惑を家族なり周りに与えてしまう。

 

もっとも惜しむべきは

 

意図しない過程に費やした時間です。

私の様に残りの人生

それはただ生命としての「生きる」ではなく

「考え」を持ちそれに則した生活を送る。

つまり積極的に生きる時間が短くなって

初めて気がつくのですが

人生は思った程長くはありません。

 

勿論、人間として成熟する為の

助走期間

生徒であったり学生であったり

社会人として経験を積む時間であったり

それらを含めると

多少の長さはありはします。

 

事「自分」が確立された

それは大人としての頭もそうですが

自分が影響を及ぼした環境

特に家庭はその代表格ですが

それらがある程を成して

改めて「自分」を顧み

また先を考えた時

残された時間のあまりの短さに

驚き慌てるのです。

 

そして後悔するのです。

 

若い頃から「考える」行為を

軽く考え怠惰に過ごして来た

無駄な時間を嘆くのです。

若い頃から「思い」だけで走り

「考え」て言葉を発していなかったことを。

 

「考える」は「言葉となる」

そして

それは次の行為につながります。

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