「言葉」は「行動」となる。

昨日の続きです。

 

「考え」が「言葉」になる。

そしてそれが次の行為に当然繋がります。

それは何か。

 

「行動」です。

 

自ら発した言葉は

自らを縛り

いや縛ると言う表現は適切ではありませんね。

自らに責任を科し

それを体現しなければならなくなります。

いや、不思議なことに

「そう行動すべきだ」

と自らの行動を律するのです。

 

もし言葉と違えた行動を取った場合

勿論他人様からは

「あ〜残念な人」

とは思われるでしょうが

それよりも何よりも

自分の心が実に残念を通り越して

慚愧の念でいっぱいとなり

それは何故かいつまで経っても

「恥ずかしいこと」

として記憶に刻まれてしまう。

 

人間の記憶は実に不思議なのですが

嫌な記憶

恥ずかしい記憶

思い出したくない記憶

それらを意図的に

故意にふだん使いの脳から

一時的に消し去るのだそうです。

 

しかしそれは電流で言えば

その部分を避けて流れる様なもので

それ自体が無くなってしまった訳ではない。

流そうとする意図があれば

ちゃんと流れ

そして鮮明にその記憶は

逆に鮮明に

蘇えさせる事はできるのです。

本当に不思議です。

私も故意に思い出して見ましたが

実に細部に渡って思い出す事ができました。

 

恥ずかしいったらありゃしない。

 

そうした残念な記憶を残さない為には

どうするのか。

一度記憶されたものは仕方がありません。

そら人間ですもの

数多くの「封印」された記憶があって

当然なのです。

 

しかし人間が人間たる所以。

常に進化し続ける。

それを体現する為には

まず「考える」。

そしてそれが必然として

行動する。

いや行動となるのです。

 

ここまでの一連の流れを

確実に履行し

常に行動するとどうなるか。

 

それは「習慣」となります。

 

ここまでは内なる行為でありまして

これから先が対外的な

あなたの、私の、

他人様、社会的に評価される

流れとしてなって行くのであります。

 

皆さんも無意識に行っているでしょうが

他人様を自分の中でどう捉えるか。

実はここから先の部分でしか見ていないのです。

ですから

親の価値観が全ての幼少期を除き

自ら考えることがいかに重要か。

それは人間に深く根ざした習性が

考えたことを行動させると言う

抗いようのない行為であるが故に

論を待たないのでありますよ。

 

そしてこれから先

外から見える部分が

人間が作り出したシステム、

社会と言い換える事もできますが

それに取って重要でありますし

人間として生を受けた者として

その短い時間を

充実させられるものでもあります。

 

それはまた明日(笑)

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