一昨日実家に行った。
その道すがら考えた。
私の親は子供の私の目から見ても
その生き様、行動、考え方は
決して褒められたものではない。
し、なかった。
若い頃、自分で生活できる様になって
「これは変だ」
と何時も感じていたことではあった。
それが結婚をして
家族に家内と言う「他人」が入り
包括的に「私ども」への対応を見て
それは確信へと変わった。
何しろ
「守らねばならない人」
がいるのであるから
母からの私への要求は
とりもなおさず
私の「家族」への要求となるのである。
当然視点も違って来る。
驚く様な数々の事件を経て
今の心情に至るのである。
両親共に齢を重ね
父がアルツハイマーを発病してから
あしげく実家詣でをすることとなった。
実際、世間では
「面倒見の良い」
と、特にお世話になっている
施設、ケアマネさん、ヘルパーさん
病院関係者からは言われる。
しかしその実は
嫌なのである。
母の
「まだ施設には入りたくない」
との言葉を聞いて
「まぁ体が動かなるまでは」
と彼女の意思を汲んでの現状である。
毎月の諸手続き
関係各位では成し得ない。
なぜなら
特にまだ「所帯」があるのであるから
物理的に他人様では困難を極める。
だから通っているのであり
感情的な部分では
その方面に車を向かわせるだけで
憂鬱なのである。
実際に住んだこともなければ
ご近所さんとも面識がなかった故
完全にアウェイでもある居心地の悪さ。
加えて心情的に今までの我が家の
家族史がそうさせるのである。
実際に父の入居している施設
またヘルパーさんとお話をすると
近くにいらっしゃるのに
全く顔を出さず
全て施設任せの家庭も多いそうだ。
私はそれを聞いて
善人ヅラして非難するつもりは全くない。
なぜなら、
その心情の一端もわかるつもりであるから。
そら、各家庭にそれぞれの事情
歴史があるのであろう。
それを一元的に見て論ずるなど
以ての外である。
しかし一昨日は車を走らせながら考えた。
この感情を
「もし」
我が子が私に持ったとしたら
私はどうであろう。
多分、
それまでに経験したことのない
絶望感を味わうであろう。
それにハタと気がついた。
今まで私は彼女に何をしたのだろう。
いや
物理的にはごく平凡に「並」の事を
していたのだが
その心うちは嫌悪しかなかった。
当たり前だが
親は選べない。
どんな親であろうが否定できない。
そしてそれはどんな形にせよ
絆として結ばれている。
産んでくれたこと
育ててくれたこと
それに感謝せねばならないこと。
そしてまだオツムがマトモな短い時間を
たおやかに過ごさせることが
私にできる子供としての
「せいぜい」なのかと
昨日はしみじみ考えた。
己の行為は必ず自分に返って来る。
これは多分
本当であろう。
実際、顔突き合わせて喋ると
すぐにそんな「想い」は
ぶっ飛んじゃうんだけどね。