言霊VS孫子 夏休み観察日記。

昨夜子供と話しておりまして

パレスチナ問題にまで話題が及び

背景たる宗教観にまで至ったのであります。

 

ご案内の通り

イスラム教にしてもキリスト教にしても

神の概念は一緒であります。

 

こと宗教を持たぬ我が国民なればこそ

これを客観的に捉えることを

可能ならしめるのです。

その点では宗教色の無い国で

教育を受けたことを幸いと思っています。

 

概念が一緒と申しましたが

それは「擬人化」していない点でも明白であります。

つまり

「長く白い髭を蓄え白装束に杖持った」

と、ついつい我が国の人は

思いたいのでありますが

実はチャウのよ。

「神」というのは形はないの。

 

これ書き始めると「序」だけでも

軽く原稿用紙50枚はすぐにでも

書けちゃいますからすっ飛ばして

我が国はどうか。

 

八百万の神。

良く聞く言葉であります。

そりゃ、そこらかしこ中に神様がいらっしゃる。

それをウチの子は

アミュニズムと言いやがった。

まま、強く否定できぬ所は痛いのですが

そこから今度は「言霊」にまで話が及び、

 

当然ですが「八百万」と「言霊」は切っても

いえ、初手から一体であります。

と、話が一応終わりそうな場面で

「一旦口に出しちゃんだからさ」

と志望校を決めた彼に言を向けます。

 

しかしですなぁ

 

「子曰く

其の言にこれ恥ざれば

則ち

これ為すこと難し。」

 

と習いましたが

全く真逆であります。

「言葉は慎んでこそ実行に至る」

 

と私は解釈しております。

 

そう考えますと

メラメラと青い炎を心に納め

いざ時が来りなば

人をして震撼ならしめる。

 

これよね。

と私はこちらを摂りたい。

 

「ちゃんと塾に行って自習してよね」

「なんで?」

 

「当たり前でしょ。

相手は商売道具を貸してくれているんだから

時期が終わったら言葉として

お礼と言うケジメをつけなきゃでしょ」

 

そんなんもわからんで

ようナンチャラ大学に行きたいと

言うたものではあります。

 

言葉の重みについて前半部分も後半部分も

社会常識も

全くわかっとらん。

 

なんたる体たらく。

 

今朝も出勤間際

自室で気持ち良さげに寝ている

我が子の顔を見ながら

メラメラと昇り立つ「紅い」炎を納めつつ

車上の人となったのであります。

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