マスクとメールの類似点について考える。

マスクをはめたまま人と対峙して話す。

 

よくある光景であるし

実際私も良く経験する。

 

昔はマスクと言えば冬の風物詩であったが

最近は衛生観念が昔と違うらしく

四季を通じて見かけることが多い。

 

冬場は自分も人混みを歩かざるを得ない時は

予防の観点からする場合がある。

インフルエンザは冬場が多いので。

 

これは賛否あるのかもしれないが

私は人と話す時はマスクを外す事を心がける。

それは言葉だけの対話だけでは伝わらない

微妙なニュアンスが顔の表情から出るであろうし

相手の顔からも私には伝わるからである。

一応、礼儀と私は思っている。

 

あくまで「私は」である。

 

同じことがメールにも言える。

現在はSNSがあり連絡するのは大変便利な世の中である。

事務的な連絡だけならそれも良いのであり

突然相手の都合も考えず電話して

貴重な時間を奪い取ることもない。

SNS、メールは時間がある時に読めば良いのであるから。

SNSは少し私にとって「文字」の意味合いが違うから

この場では触れない。

 

ことメールに関しては扱いが大変難しい。

 

これまた相手の顔が見えないのであるから

手紙として書くのが正しいのか否か。

悩むのである。

 

勿論メールの種類にもよるのであろうが。

平安時代から営々と続く文字の大衆化の象徴として

手紙はその個性を、また文化を顕していると考える。

 

発した言葉は自身そのものと化す。

そう考えるとキーボードを打つ手が止まるのである。

言葉の選別からニュアンスが違ってくる。

当然である。

 

現代は大変便利な世の中であるから

単語を打つと実際は自身では書けない文字すら

選び取ることが可能である。

大変便利ではあるが

これもまた大変な誤解された印象を与えてしまう。

 

メールで日時を打合せ、実際お会いすると

良しにつけ悪しきにつけ

全然印象が違っている場合も結構多い。

 

これもマスク同様、

相手の「顔」が見えない事に起因する。

故に「言葉選び」とその組み合わせに苦慮するのである。

 

タイトな時間を渡り歩き結果を出さねばならぬ現代である。

当然便利なツールとしてデバイスを使うことには異論はない。

しかし「ここ一番」の時は

 

飛行機代使ってでも顔と顔で決断したいのである。

 

てなこと言ってるから

時代から取り残されちゃうんだよなぁ。

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