「幸せ」の尺度を小さく持ちたいのである。

幸福の尺度は人ぞれそれである。

 

人間を長くやっていると様々な人と出会う。

 

子供さん全員の父親が違い

生活の為に夜も昼も必死で働くシングルマザー。

 

家庭は崩壊

それぞれが何がしかの年金を受給する

精神科に通っている人。

 

中には教職にあり

過労から軽い鬱を発症し

医療現場の安易な投薬から症状悪化で

家庭崩壊どころか

社会復帰不可能になった人。

 

不思議な事にお話ししてみると

それぞれが皆さん屈託がなく

良い人ばかりである。

 

過去のその原因となったものを恨み続けるでもなく

現状を淡々と受け入れ必死に「生きて」いる。

 

片や軽井沢でお話しした方が仰っていた。

「本物のここ(軽井沢)に住む人には

夢がないのよ」

 

意味もわかるはずもなく

その理由を尋ねると

「だって、今日あれが欲しいと思ったら

明日には持ってる連中ばかりだもん」

だそうだ。

 

当の本人も地方で軽く家が買えてしまう車で

ホィとツルヤに買い物に行かれた。

 

お金で手に入らないものは何もない。

そこには世界をそう考える人が多いのだそうだ。

 

その是非は全く別の話になるのでここでは触れない。

 

思うに

産まれながらその世界だった人もいるとは思う。

しかし、大方の人はそれなりの努力をして

もしくは環境と時勢に恵まれて

現在があるのだと思う。

 

その結果が「これ」だとしたら

ちょっと虚しいのではないか。

私の個人的な感想だけど。

 

そりゃお金は無いよりあった方が良いに決まっている。

しかしそれが「過ぎた」ものになった場合

生きる目的意識の喪失と言うか

ある意味「抜け殻」になってしまう様な気がする。

 

誰しもが思う

「今よりも恵まれた暮らしをしたい」

それは多分に金銭的な事が多い。

 

それはそうであろう。

現在は何をするにもまずお金である。

人間を人間たらしめる知性ですら

「高み」を望めばお金が必要な仕組みとなっている。

 

霞ヶ関の一大学閥である大学の家庭の

平均年収を調べてみるがいい。

財閥系トップ企業の学閥を調べてみるがいい。

昔も今も大差ないのである。

 

それを目指して今を努力する。

そして結果、目指すものが見えなくなる。

 

なんだか考えさせられるのである。

 

幸せの定義は人様々である。

 

小さな達成に幸せを感じる人生を歩みたい。

 

と思うのである。

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