そこにある現実。高齢者介護。

アイキャッチは「猫の手も借りたい」

 

現在、家内の実家にお邪魔してますが

家内の母、

私の義理の母が最近頓に様子がおかしい。

 

実の母も相当ですが

ありゃ私に言わせると

「確信犯」

で、彼女は別格。

 

良く言われる事に

「ギリギリ自分で出来る事はさせた方が良い。」

これは義理の母を見ていてわかります。

 

多分、私らみたいな年に数度しか来ない

「お客さん」が親切心、

良かれと思い先回りして色々な身の周りの事を

してあげますと

それが「当たり前」になり

私らが帰った後、

否応なく

年中面倒を見なければいけない家族に

大きな負担と

大変な神経の磨耗を強いなければ

いけなくなります。

 

お邪魔して数日ですが

私もつい「良い子」ぶる。

それがいけない。

本人は体が動かなくて

頼る訳ではありません。

その頭、

頭脳をなるべく使う様にしてあげなければ

後々困るのは周りの家族なのです。

 

家族団欒にも相当神経を使います。

まづ自分がいるのに周りが自分の方に

視線、意識が向いていないと

突然不機嫌となります。

 

勿論話しても

会話の整合性は全く

取れないのではあるのですが。

多分自身の意識は

以前のままとの「記憶」だけが残っていて

「疎外感」を味わうのでありましょう。

自我があるうちは、いくら齢を重ねようと

人として真面に対応するのが我々の務め。

 

改めて思い知らされます。

これが身内でなければ

「なに言ってるの?」

で終わらせるのでありましょうが

身内になった瞬間から

他人ではないのでありますから

その変化を憂ゆるのです。

 

こちらにお邪魔して

父の事を考えました。

確かに病名は

「アルツハイマー」

これは脳が萎縮していくとの

医学会の定義ですが

果たしてその結果が

「意識がない」

と同意なのか?

義理の母を見ていて思うのです。

 

父の場合は若い頃から

外に向かっては、

かなり控えめな性格でした。

実際の行動は常識外れの大胆なものでした。

家族にとっては、それも巻き込んで。

 

他人から良い人に見られたい気持ちが強い、

結果、発言もかなり控えめではありました。

それが現在の父の姿となっていて

「自我」はあるのではないのか。

 

進行して出る言動態度の違いは

「性格」

あるいは

「精神の先鋭化」

ではないのか。

そう考えている、たった今、現在なのです。

 

ケアマネさんから以前言われた

「施設に入れると急に進行しますよ。」

身をもって体験しています。

「ギリギリまで自分でさせるように。」

これも実に理に叶っています。

 

これに夜中起こされたり

また物音がする度に

心配で寝れなかったり

はたまた言葉に神経を使う。

これでは介護する家族が体力、精神力

共に保つはずがありません。

 

高齢者が増える事は確実な我が国で

個々に対応するのは、もはや限界に近い。

 

自身の生活もありながら

介護に相当なお金と労力を強いられる。

一体どうすれば良いと

「お上」は考えているのでしょう。

目の前で展開される現実からのお話です。

 

今年も後1日。

お正月はデイケアがお休みとなります。

確かに目出度い。

けど、三ヶ日

普段以上に慌ただし日になるのは確かです。

皆さんは「良いお年を」

です(笑)

 

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