母の財布から思い出される我が家の暗黒の歴史。その8


私には高校生の子供がおります。

彼は中学で親元を離れ

学校の寮で生活しています。

 

「今何をしてる頃かな?」

と時計を見ることもしばしば。

「勉強ちゃんとしてるかな?」

頭から離れる事はありません。

 

幼児の頃は良く鼻を詰まらせます。

吸引機は痛がりましたから

直接口を彼の鼻につけ吸い出します。

またそれが彼にも安心だったのでしょう。

「寸止め」のつもりが

飲んじまった事は数え切れぬほど。

少し大きくなった頃

体調が良くないと子供はすぐに吐きます。

吐く容器を探し始めまして

私が両の掌で受け皿を作ると

安心して心置きなくそれに吐く。

幼稚園の年少の頃

熱発して暗い別室のベッドで

一人寝かされていた彼。

心細かったのでしょう。

連絡を受け

迎えに来た私の顔を見るなり

にわかに泣き出した。

 

書き出すとキリがないのですが

彼に親にしてもらって

初めて判る親の子に対する想い。

私は男ですけど

自分のお腹で育んだ母親の気持ちは

更に深く

私ではわからないものもあるでしょう。

 

当時は私には子供はおりませんでしたが

親として子を想う気持ちから

色々な問題を母は私に隠していたのだと

私なりの親子感に立ち返り

百歩譲って思わぬ事もありませんでした。

しかし、そんな淡い想いも

木っ端微塵に吹き飛ばす

電話がある日かかってきました。

 

かなり端折って書いているので

時系列的に整合性が取れない部分もあり

書いていない事も沢山あります。

何卒御容赦。

 

もちろん我が家の事ですから

何度もあった危機的な状況の一つの折に

叫び声、泣き落としに押し切られ

私もなけなしの蓄えを出しました。

 

私も実は「脇が甘かった」。

その猛省もあって

後は頑なになったのです。

その時は彼にリストを作らせ

「カモネギスタイル」ではなく

実際に私が直接サラ金に出向き

当時私は本職でしたから遺漏なきように

元帳を出させ現認し

リストにある金額と違差がないか確認の後、

完済証明を出させて潰して行きました。

 

しかし

「よくもまぁ!」

と驚く程込み入った町の中のサラ金を

見つけていたものです。

そして満遍なくその店々で働く方々は

明らかに違う業界の方と

すぐ判る人達ばかりでした。

 

その件で私も「底」が見えていて

その状況は母も知っていました。

私も共犯ですかね。

そこへ母からの電話。

 

内容は

私に銀行から借金をしろと。

それだけでも

「馬鹿野郎!」

ですが

更に信じられない事を言う。

 

私には医師の知り合いが数人おりましたが

その人達に

「保証人をお願いすれば話が早いから」と。

そこまで言うのです。

当時は「そんな恥さらしで馬鹿げた事を!」

で当然却下。

 

サラッと書いていますが

結構な修羅場でございました。

 

自身が子を持つ親になって

今ごろになって判るのです。

私たちの痛みなど

全く感じない親であった事を。

 

この一件で万策尽き

ようやく「自己破産」に漕ぎ着けました。

 

当時の彼は

無断欠勤が続き「解雇」。

当然とっくに家も何もかも失い

母親と小さな借家に

移り住んでおりました。

 

彼にとっては仕事など

もうどうでも良かったのでしょう。

とにかく、

この「督促地獄」から抜け出したかった。

どこまででも追いかけて来ますからね。

電話だけではなく怖い人が。

当時は法整備が現在の様には

されていませんでしたから

曜日時間に関係なくです。

多少はあったかも知れませんが

それを気にする人たちではありません。

 

その状況に至るまで

平気で嘘に嘘を重ね放蕩し

結局その嘘に自分が縛られ

自分だけはおろか

誰も身動き取れなくなった。

 

「悪さ」は「悪さ」として

温情に甘えさせてもらい

一方は速攻で法的に処理していれば

普通に暮らせたかも知れませんが

結局は更に悪化させて自滅ですね。

 

でも彼の言う事を鵜呑みにし

しゃにむに狂った様に金を作り

遊興と督促の綱渡りを

繰り返させていたのは母です。

 

その傷跡は深く、払った代償も

とんでもなく大きかった。

 

今つらつらと書いた事を読み返すに

梁石日さんの「血と骨」を

なんとなく思い出します。

もちろん程度は違いますが

そこに流れる人の心がです。

 

つづきます。

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