夢が叶うか否か。
叶うのである。
厳密に言うと「夢」との単語が適切かどうかは別にして
望めば必ず「叶う」のである。
何故か。
私の場合
過去の事例ではあるが
至極単純である。
「叶うまでやり続けるから」
これを「夢は叶う」と表現して良いのか迷うところではある。
夢なるものが彼方より自分をめがけてやって来るのではない。
そちらに向け自分が走り続けた結果
振り向けば
「叶っていた」
となるのである。
思い返しながら書いているが
その道を目指した時点で
他の余分なものが目に入らなくなっていた。
そして実現の為に必要なもの。
例えば
私の場合銀行融資であったが
担保も保証人もない現状でどうすれば引き出せるか。
普段気がつかず
目の前を通り過ぎていた
方法論を意識がひょいと引っ掛けて来る。
如何に普段は雑念が多いかの査証ではあるが、
そしてそれを取り込みながら
頭の中にモヤモヤとあった物が具体性を増して
「絵」に描いているのである。
それが更に具体性を増すと
色までついて来た。
それは3年後の姿。
5年後の姿。
と頭の中で成長して行ったのである。
思い立ったらすぐに出来た訳では勿論ない。
まずは銀行融資をどうしたらもらえるのか、
行員さんに考えを出してもらいながら
まずは実行してもらえる算段の為に
ロケットで言えば1段目に点火したのである。
そこから先は意識が相当変わった。
まず勤務先に欠点が良く目につくようになっていた。
「ああ これじゃいかんわな」
で体が勝手に動き自分の会社だったらと
指示も仰ぎもせず「改善」を始めるのである。
良く窓のガラスの汚れが目についた事を覚えている。
現在の私にはとても考えられない事ではあるが。
自然と雑巾を持って拭いていた。
勤務でも嫌な事がなくなって行ったのを覚えている。
どうせ自分の会社だったらしなければいけないのであるから。
多少の後悔もあった。
学生時代と同じ種類の後悔である。
「もっと勉強しておけば良かった」である。
嫌な事を避け後回しにしていた事を後悔した。
より多くの案件をこなしておくべきであった後悔を、
今でも良く覚えている。
「随所に主となれば立処皆真なり」
与えられた場で懸命に努める。
一見「夢」と思しきものとは関係ないかの様であるが
それが一番の近道である事を私の場合、
経験として体得した様に思う。
随分遠回りはしたものではあるが。
ふと目覚め、
自分の欲するものがいつ現れないとも限らない。
嫌な事しか目につかなかった勤務先ではあったが
人間関係も含め、
それは良しにつけ悪しきにつけ良き材料となるが、
小さな事から含め
無駄な事は本当に少なかった気がする。
では懸命に勤めたらどうなるか。
それは次回に。
画像は土曜日に行った
鹿児島市の寿司屋さんのカウンターにあったもの。
意味が全然わからないのですけどw
「団塊世代の我楽多(がらくた)帳」(https:skawa68.com)というブログの
2019/6/2付けで「随処に主となれ」の記事投稿
しています。つたない記事ですが、もし、ご参考にしていただければ幸いです。