自分の可能性を自分が信じなくてどうする!

自分の可能性を考えて見た時

人は様々な思いを巡らします。

「どうせ俺なんか」

いや

「本当の俺はこうじゃない」

とか。

思うのだけれど

可能性は誰にしも平等に与えられていると。

そりゃ一部上場の会社の創業者とは

違っているかもしれませんがね。

勿論DNAもありましょうが

この場合それは除外して考えます。

良く良く考えれば、

そんなに能力的に違いはあるとは思えないのですよ。

人は成長するまでに

「大人になるまでに」でしょうか。

様々な経験、

それに付随する「想い」を積み重ねながら

「大人」になっております。

嫌な経験もありましたでしょう。

楽しく思った事も数知れずあるでしょう。

それはその個人のものであり

宝物なのです。

その様な想いを繰り返しながら

その時々の感情を積み重ねて

人の「人格」は出来ているのです。

「自分」と言う人間を大切に育てながら。

話変わって

これは私の場合だけかも知れませんが

私の可能性を私の親は信じているでしょうか。

勿論「我が子」ですから

信じてあげたいのはあるでしょう。

それは心のことであり

能力的なものではない様な気がします。

「うちの子に限って」

とは良く聞く言葉ではありますが

それは半分期待を込めての発言となります。

そしてそれは

「気立ての良い子」

「本当は心の優しい子」

なのですね。

ところが「能力」となると話は別です。

何か大きな事をしようとか

例えば勤めを辞めて独立しようとか。

そう言った場合

大方の親御さんは心配をなさいます。

場合によっては本気で止めに入られる。

友人のそんな経験も目にして来ました。

つまり「能力」に関して言えば

一番自分の事を理解してくれていた筈の親でさえ

余りと言いましょうか

信じてはいないのですね。

たいていの場合ですよ。

例外も勿論あります。

そこで思うのですよ。

諸々の想いを繰り返しながら

「今」の自分があります。

色々な物に対する考えも当然あるでしょう。

そんな個人史を積み重ねながら作り上げてきた自分。

その自分を愛おしみ可能性を信じてあげなければ

それまでの自分がかわいそうなのです。

他人はおろか、

親まで本気で信用していない自分の可能性。

それを自分が信じなくて誰が信じる。

信じなくては今までの自分史が

かわいそうではありませんか。

感情論で書いているのではありません。

自分が自分の奉賛者でなくてどうする。

人が出来る事ですから

決して出来ない事はない。

と、私は私に言いたいのです。

声を大にして鼓舞しなければいけない状況なのですね。私がw

画像はクロワッサンのラスク。

最近のラスクはフランスパンだけではないのですね。

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