西田幾多郎
昭和初期を代表し京都学派を代表する
「巨人」である事については異論は無いであろう。
業績は知らずとも
京都の「哲学の小径」で名前はご存知の方が多いと思う。
ドイツ哲学との対比において
陽明学さらには仏教まで対比(対質)させた事には
現在に至るまで異質であり素晴らしく革新的
また個性的とは言え普遍性をも持つ。
カントから始める哲学の方向性は
ともすれば「考古学」的な古代中世哲学の研究に
走りがちであるが
果敢にも近代、現代に挑み
独自の展開をした事のみ取っても
その業績は「不変」である。
そもそも「哲学」とはなんぞや。
一般論はない。
多方面に渡る事象に対してそれぞれの「哲学」がある。
それに地域、国別が入って来るから
多岐に渡り過ぎて一括りでは到底説明などつかない。
我が国では長きに渡り中国の影響を受けていた。
それは欧州の哲学とは大きく違い
「議論」がまずない。
先達が作り上げたものを履修し我が支えとする。
そんな時代が長かった様に思う。
「議論」があるとないとでは大違いである。
誤解を恐れず言うならば
まず思惟を前進させる可能性がかなり低くなると
考えざるを得ない。
そこに西田哲学である。
古来より個々に縦割りであった「学」を
横から眺めそれを体系化する。
未だに西田幾多郎がビッグネームとして
語られるには
それを前進せしめ
また「違」を唱え
体系的にまとめたものがないからであろう。
私はそちら方面は門外漢ではあるが
現在その道を研修されている方たちの不遇を思い
欧米での評価との違いを嘆くのである。
諸外国、国にもよるが
先進国と呼ばれている国では
職業として「哲学者」は立派に通用する。
我が国では「哲学者」の前に
「◯◯大学教授」とか「准教授」の肩書きがないと
なかなか理解してもらえない。
ましては、その学科を終了しても
それを生かす就職先がない。
教職に就くか
大学院へ行くか
はたまた全く異業種に糊口を求めるか。
嘆きます。
繰り返しますが
私は「門外漢」です。