相続の法に感情を挟む余地はなく感傷は金を失う。

今やスマホは「魔法の箱」である。

 

ちょいと解らないことがあると

液晶に向かいキーワードを叩くだけで

ズラリと関連項目が並ぶ。

 

そのトップから読み始めると

何となくわかった気になるから不思議である。

この行動はもはや習性である。

 

それで得た知識を基に

今、身近に起きた解決すべき問題に

自分なりに方法を見出した気がしていた。

実にネットは便利である。

しかし実際にはどうであろう。

 

事は相続問題である。

 

相手が親戚ゆえ

奥歯に物の挟まった応酬が続いていた。

 

一応、念のため出した答えを

顧問の弁護士の先生に尋ねに行った。

 

しかしその結果は

想像していたものと

大きく違っていた。

 

家内の家業もそうであるが

一般に我々が使う日本語と

 

制度に使う日本語は全く違う。

 

その制度における解釈と

慣習での判断との乖離は実に大きい。

そして個々の置かれた状況によって

解釈も刻々違って行く。

 

事実を有り体に伝えると

こちらに伝えられていた情報が

綿密に計算されていた事実を知る事となった。

その事実をつなげることにより

相手のこちらへの対する感情も

推し量れるのだから

実に法とは

緻密かつ厳密に人間を理解している。

 

その対応としては

こちらも法をもって

文書にて自分の意思を伝える事が

もっとも重要であると教えられた。

親しく親戚として交わした会話での

約束事など何の意味も持たぬ。

その世界では感情は無縁であり

当たり前のこととして

行わなければいけない旨も教えられた。

 

その文書で壊れる関係なら

そこまでであり

権利を主張するに

何も憚る事はない。

当たり前と認識しなければいけない。

 

とかく

「こんな事言ったら相手はどう思うかな」

と頭を悩ませる事は多い。

親戚間でのこの問題で

体裁を気にするあまり

全部持って行かれた父を思い出す。

いや、思い出さねばいけなかった。

極身近に反面教師がいたにも関わらず

その轍を踏もうとしていた。

 

また感情の部分に訴えようとする

人間の計算高いところも

垣間見えたのは新鮮であった。

人間の下心をあぶり出す

なんとも「法」とは無慈悲

いや公明であることよ。

 

法には法を持って対する。

 

これ以外ないのである。

これに下手に自分の感情を挟み

自分が「良い人」を演じたらどうなるか。

結果、尻の毛まで抜かれ

結果、家族に残すものまで失う。

危ないのである。

現実社会では手にした方が勝ちなのである。

判を押したら最後。

相手が法で守られるのである。

 

言葉は悪いが

他人である家内の判断が

最も適切であったのには

反論の余地は全くない。

こんなに長く生きてきたのに

まだ「良い子ちゃん」ぶろうとする

情けない男であることを

思い知らされた一日であった。

 

ネットの落とし穴。

 

主観で書かれた文章を

さらに「私的」日常で使う日本語で解釈し

「ではないか」

と判断を下す。

 

しかし社会の根幹たる法は

その浅慮を軽く鼻で笑う。

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