コブクロの黒田俊介さんと大杉漣さんを見間違える私。「桜」は良い!

ライブ映像でコブクロを観た時

ハンドマイクで

熱唱する黒田俊介さんが

一瞬、大杉漣さんに見えた。

 

が、良く見ると違う。

当たり前である。

しかし、似ていた。

 

今日は何故コブクロの話題なのか。

 

私は彼らの「桜」が大好きなのである。

 

歌詞はそれ程でもない。

考えても欲しい。

この年である。

恋愛とかLoveとか言われても

そら、切ねぇ思いもぎょうさん、

修羅場も散々経験しているのである。

今更「Love」と言われても困るのである。

 

が、照れ分別はない。

対象、世の中が「であろう」と

「現役」と見てくれないのである。

甘んじて受け入れるしかない。

悪代官としては無念である。

 

もし、今「愛」を語るなら

我々に許されるのは

「人類愛」とか無害なもの。

 

か、いまわの際に過去の悪行を懺悔し

「愛」に包まれ召される。

 

なんて事にすぐ想いが至る私は

根っからの俗人を自覚するしかない。

 

「桜」の歌詞に

「そして大人になっていく」

とあるが

もう散々大人であって

いや生物学的に

もう後がない身上であるから

「大人」もヘチマも

それは確かに無い。

 

が、この曲のサビの部分のメロディは

実に泣ける。

サビ以外は割と平坦なメロディであるから

余計に際立つのである。

 

何故に今春はこの曲が際立つのか?

 

我が家には

それらの歌詞とラップする

これからの若人が一人いるからである。

 

息子である。

 

彼の年を思えば

これからである。

私が彼の年だった頃を思い出すに

そら、

未来への時間が無限に続く気がしていた。

 

これから

「これでもか」

の、切ない想いも相当するであろうし

実社会の壁にも遭遇するであろう。

今までは何しろ「生徒」として

「保護」されていたのであるから。

 

息子がお世話になった

鹿児島のあの学校は

世間で思われている様な学校ではない。

それは断言できる。

 

6年も保護者として通えば

体感としてわかる。

 

まず自由である。

校則で縛る野暮はない。

学校は

「生徒の自主性を重んじる」。

ものは言い様である。

 

で、動物園

いや、

檻のないサファリパーク

が出現する。

 

 

そら、私ら大人が考えつかない様な

「ハァ〜!!」

と震撼せしめる事もあれば

「???」

てな珍事も頻発する。

帰省する息子と話していて

「エッ 我が子が!」

てな考えも披露される。

 

そこそこ地頭の良い男子だけで

寝食共にする集団生活を6年もやり

堪能、馴染んだ場合

羞恥心の概念も違う

そら親から見れば

 

「エライこっちゃ!」

 

の子供が一丁出来上がる。

 

しかし、そが為に

彼らなら

何処ででも生きて行けるであろうとの

妙な逞しさも醸成されたと感想する。

 

その子供たちが

これから各地へ散って行き

色々な経験をし

色々な感慨を持ち成長して行く。

 

その送り出す親の感情と

何故か「桜」のサビは

見事に私の中でシンクロするのであるよ。

 

6年間見慣れた息子の友達たちの顔を

 

一人一人思い出しながら

新しい生活を始める息子たちに

 

「がんばれよ」

 

と心で素直に声をかけ見送る。

 

散りゆく桜の花びらが

この春は誠に切なく

私は

涙もろいオッさんなのだ。

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