「目黒のさんま」を子供に説明するが、あの妙味は落語じゃないとやっぱり無理。

過日の子供が帰省していた夏休み。

昼間は職場であるから

子供と会話するは必然として夜になる。

なんの話からだったか失念したが

その話の比喩として

 

「目黒のサンマ」

 

を私は持ち出した。

一通り話を聞き終わった彼は

 

「だから何?」

 

とその比喩の妙味が理解できなかった。

 

それは私の話し方に問題があるのであろう。

 

お話はご存知の通り

目黒に鷹狩りに出た殿様が昼食を忘れられ

その時漂って来たサンマを焼く匂いに誘われ

それを食された。

 

サンマは庶民の魚であり

殿様は口にすることはない。

それをまた所望した殿様に

良かれと油抜き骨抜きをして

出したところ

当然サンマの塩焼きの特性を

抜かれたそれがうまい筈もなく

えらく失望された殿様に聞かれる。

 

「これはどこで調達したサンマであるか?」

 

当然答えは本場の魚河岸である。

 

その答えを聞いた殿様は

 

「やっぱりサンマは目黒に限る」

 

当然だが目黒は海になど面していない。

問題はその調理法である。

 

そこがこの話の妙味であるのだが

それが現代の子供にはわからない。

 

何故かと問われると

答えは簡単。

 

落語を聞かないから。

 

現在はどのチャンネルを回しても

「お笑い」のタレントが必ずと言って良い程

出演、司会をしている。

 

元はと言えば

「寄席」で落語の合間に

その場を繋ぐ

昔で言えばお笑い芸人は

「色物」。

あの世界には厳然たる階級があり

 

「噺家」と「色物」の差は天と地ほどある。

今は知らぬが

親子ほど年が離れていても

楽屋では席は違うし

また何事にも先を譲らねばならぬ

厳しい世界なのである。

 

当然であろう。

「噺家」は話芸で伝統的な「古典」物から

創作の「現代」物まで

その話し方で人を笑わせたり泣かせたり。

また感動させる為に永きに渡り修行を積む。

 

弟子から前座見習い

見習いから二ツ目。

二ツ目から真打と切れ目なく

修行を積む。

 

その間に耐えきれず当然落つる方もいる。

万年二ツ目の人だっている。

 

その結実が「人間国宝」にも認定される。

まごう事なき伝統芸能である。

 

この話題を書き始めると

とてもじゃないが一度二度では終わらない。

同じ「噺」でも噺家によって全く違うものとなる。

それには明確に修練と才能が現れる。

 

誠に「日本語」の妙味

 

その結実にして

聞き手も噺に引き込まれ

泣きもすれば笑いもする。

 

それを聞いたことがない現代の若者は

本当に不幸である。

 

お笑いタレントの一発芸は知っていても

永きに渡り語り継がれた「噺」を知らぬ。

これでは彼らが大人になって行く過程に於いて

その会話に深みと彩がなくなって行くのは

必定であると考えるこの頃。

 

上方落語の雄

米朝さんの「鴻池の犬」。

何度聞いても泣ける。

 

これは我々の時代で終わりだろうか。

 

アイキャッチは落語芸術協会さんのです。

 

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