桑原武夫先生の蔵書が処分されていた。本と言う名の物体について考える。

桑原武夫さんのご遺族から寄贈された

蔵書一万冊が知らぬ間に廃棄されていた。

 

ショッキングな話題が27日の夜

飛び込んできました。

廃棄した蔵書寄贈先は京都市教育委員会。

 

どうショッキングなのか。

まず桑原武夫さんの蔵書であった点。

 

フランス文学者にして新京都学派の

中心的、指導者にして大変なお方。

その成果は様々な形で知ることはできます。

そこに至るまでの組み方を知る上で

何を読まれていたのか

道筋を知る上で大変貴重です。

事件はゆかりの京都教育委員会で起こった。

これまたショッキングです。

 

勿論それは桑原さん自身が

お書きになったものでは

ありませんから

何をお読みになったのか

目録を見ればわかる事ではあります。

そしてそれを巷から探し出して

読むことも可能です。

同じものが多分あるはずでしょうから。

 

そこで私が問題とするのは

「本」と言う物理的な物体についてです。

 

昨年震災に遭いまして

「その後始末に何が一番大変だったか」

と問われれば

それは「本」の片付けであります。

 

床から天井まであった本棚が

全部崩れ落ちたのですから

本当に足の踏み場もありませんでした。

 

しかし片付けねばなりません。

仕方がない。

床を埋め尽くした本の上を歩き

シオシオと片付けて行ったのでありますが

その時の罪悪感は一歩踏み出すごとに

胸を裂いたのであります。

 

文学書から専門書

やたら多かった辞書

それらを「踏み」ながらの作業は

「痛い」ものでした。

 

啓蒙書、Hou to本の類は

元よりありませんでしたから

取捨選択の余地はなかったのです。

 

それと同時に思い知らされたのは

「本」の物理的な重さと大きさ。

 

これがまた困難な作業に

肉体的な苦労を重ねたのです。

 

確かに書物に書かれていることは

読んだ時、使った時の感傷も含めて

何事にも代えがたいものではあります。

 

しかし物体としての本は

片付ける段になりますと

単なる重たく

「取っ手」もない厄介な代物です。

インディアン紙で厚さ10cmにもなりますと

その重さは一冊でも半端ではありません。

 

震災時はそれが凶器でもありました。

実際、専門辞書が崩れ落ちて来て

肋骨を折った知人もおります。

 

しかしその作業を

しなければいけない

震災ゴミとして廃棄する気には

到底なれない

自らの知性を立証するであろう

疑念を挟む余地のない

やらなければいけない作業でした。

 

なぜなら

「知性」が「形」として

そこに存在しているのですから。

 

そこが「本」の悩ましい所なのです。

 

結局、

家具、電化製品、諸々は

ポイポイと震災ゴミに出したのですが

本だけは次の震災が来ても良い様に

ダンボール箱に入れ

積み上がったそれは

部屋の大半を占め

その中で生活をすると言う

異様な光景を現在も呈しているのです。

 

庶民ですらこの心情ですから

桑原さんの蔵書を処理した責任者の方

相当悩まれたかと推察します。

 

学術的に重要はものは

京大に寄贈済み。

問題の寄贈されたのは

一般に市販されていた書籍一万冊。

 

この量は半端ではありません。

その質量は部屋に置いたら

どの程度になるのか想像できますか。

学部時代、私の学派の先生の自宅が

そうでありました。

凡夫には「異様」にしか映らない。

 

その処置に相当な葛藤があったのは

想像に難くありません。

どの様な方法で

廃棄されたのかは知りません。

願わくば各所の図書館に提供、

そんな淡い期待をしているのであります。

 

しかし遺族に相談しなかったのは

実にまずかったですね。

その点は判断に瑕疵があったと

言わざるを得ない。

 

ペーパーレスが叫ばれて久しいのですが

今でも神保町に通いたい衝動に

駆られる私としては人生が終わるまで

多分「形」として残していくことに

執着するのでありましょう。

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