両親の寿命と自分の人生の残り時間を考える。2

私は寒がりで暑がり。

今これを書いている部屋は実に寒い。

 

勿論エアコンを入れてはいますが

効きゃしない。

 

しかし昔の文人は偉かった。

エアコンは勿論

ストーブもない時代に

ドテラの厚着で

火鉢で手を温めながら

原稿用紙に万年筆。

それで後世に残り影響を与えたり

また、それを綿々と研究するものを

残していった。

 

その執念とでも言うべき

創作力、思惟力は

私の想像の外にあることだけは

間違いない様です。

それも素晴らしい「日本語」で。

 

昨日の続きですが

母の面倒も父と同じ施設に依頼しています。

良く面倒をみてくださり

また良く状況を把握して適切な指示を

各方面と協議、実行して下さっている。

 

昨日の父は寝ていました。

先日アマゾンから送ったパジャマを着て。

 

そこで話をしたのですが

その施設には、それこそ食べる事も出来ず

お腹からチューブを入れ

生命を維持している方も

多数いらっしゃるそうです。

当然意識はない。

第一「食べる」行為を忘れているのですから。

 

そんな方に良くあるのだそうですが

親族が誰もその状況に関与しない。

つまり同じ町内にいながら

「預けっぱなし」

にされている方も多数いらっしゃるとか。

年金の管理から全て施設任せ。

当然施設の使用料もかかる訳ですから

施設としても関与せざるを得ない。

施設としても決断を迫られた時

大変困るのだそうですが

なにやら親族側の心理もお判りの様で

それについては強く抗議やら要求はしない。

 

私に対して

「良く来てもらって感謝しています」

と思いがけない言葉をもらいました。

こちらとしては

良く面倒をみてもらって

逆に感謝なのでありますが

どうも現実はそうではない事が多いらしい。

 

正直な話、

父の場合、症状が症状だけに

私の手には間違いなく余ります。

それを手厚く介護して頂ける事に

誠に感謝なのですが

世の中には状況がそれを許さず

発症していても

独居のまま

お暮らしの高齢者もいらっしゃるとの事。

それよりも

家族は全然ノータッチでも

この様な施設にいる

高齢者は幸いであるとの事でした。

 

この落差は何から来るのでしょうか。

世を賑わすニュースにも度々でてきますが

高齢者とその介護をする子供の現状。

 

去年でしたか

琵琶湖における親子の心中事件で

生き残った子供の裁判が結審しました。

 

これは決して特別な例ではありません。

子供は介護施設に入れることもままならず

自ら介護していたのですが

そが為に職に就く事もできず

国民年金で生きて行くのは

到底無理であるのはご存知の通り。

最後の手段として選んだ道がそれでした。

 

この事の状況は違いますが

その心理は良く判ります。

 

子の婚期辺りに親が発症するなら

そうせざるを得ないでしょう。

つまり結果として

フレキシブルな職を転々とし

症状が悪化するに連れ

それも難しくなる。

 

昨今「高齢者」の定義を見直そうと

盛んに論議されています。

 

現在65歳からなのですが

それを75歳からそう呼ぶ事に

するとかしないとか。

 

確かに現在各方面

それも第一線で活躍されている方に

その歳を超えていらっしゃる方も多い。

しかし世の大半は

そうではない現実なのです。

 

表層的には

「高齢者」の定義を見直す事によって

「高齢者」は一気に減るでありましょう。

しかし「実」が伴わない。

 

これは高齢者問題だけには留まりません。

「実」が伴わない事が現在の我が国には

多いですね。

「先送り」しても

良い事は決してないのですが。

あ、

これ我が身に言えることでもありますが。

 

諸々ね。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です