ファミマのクリスマスケーキと「老い」を考えるクリスマス。

まずご報告。

ファミマのクリスマスケーキです。

こんな塩梅。

何もデコレーションされていません。

で、これ。

苺は別に付いて来ますから

テキトーに。

実に我が家らしい。

 

味ですが

それが不思議なことに縁と真ん中の

角?

絞ったクリームですが

全然甘くないのです。

スポンジが二段構えですが

その間に入っているクリーム。

そして上に塗ってあるクリーム。

これは実に甘い。

 

スポンジは柔らかめ。

を通り越して切り分けましたら

「腰砕け」でありました。

 

結論。

来年頼まれたらどうしましょう。

 

昨日は実家詣して来ましたが

「老い」

は誠に考えさせられるものがあります。

 

まず母でありますが

これがまだ口は達者。

しかし話している内に

寂寥感が湧いてくるのも確かであります。

 

実感ですが

確かに身の回りの事位は自分でできます。

しかし

「天気も良いし、ほんじゃ!」

と外をほっつき歩き近所の家に上がり込む。

とは行かない体の「老い」の現実。

日がな一日テレビに突っ込みを入れる。

話し相手としては毎日来るヘルパーさん

ケアマネさんくらい。

老いても尚盛んな文筆家とか

思想家などは誠に稀な例なのでありまして

思いっきり普通の人の「老い」は

際限ない身体の苦痛と

寂しさへの忍耐を迫られるのであります。

 

母は良く

「長生きはするものじゃない。」

と口癖しますが

話して、またその様子を間近に見ますと

彼女の容姿と共に実感させられます。

 

父はアルツハイマーが進行していますから

私が訪ねた時は調子が良く

「ウンウン」

と頷いたのでありますが

これもまた考えさせられます。

 

人間をして、その人間たらしめる

脳が機能を失いつつあるのですから

誤解を承知で申し上げるなら

生命体として

生きているだけなのです

 

本人がそれを承知の上で

いや、あろう筈もない。

「意識」すらない。

誠に「空」の概念も通じぬ

その存在としてだけの

「生」と「空」

 

私は自問します。

親子の情を超えた刹那に

湧くこの疑問は何なのか。

それでも「生」は望まれ

喜ぶべきものなのか。

 

父は意識がないのでありますから

これは致し方ないとしても

早く「お迎え」が来るのを

待ち望んでいる母。

 

やがて私にも訪れるでありましょう

目の前のこの現実に、

若かりし頃、思いっきり何事にも取り組まず

勉学しなかった事を心底後悔します。

 

「しておけば良かった」

繰言をする日々が近づきつつある今、

父の車椅子を推す足がすくみ

己の足らざるに戦慄するのです。

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