先日馴染のお店に行って来ました。
業種は「内緒」(笑)
そのこのおばちゃんとお話するのが楽しいのです。
馴染のお客さんとの会話も楽しい。
久しぶりでした。
震災から行ってませんでしたから。
開口一番
「どうしてたの?」
「なんとか生きてたよ」
話は震災当日あたりの話で盛り上がりました。
おばちゃんは親戚にスーパーの偉いさんがいたらしく
食べ物には全く不自由しなかったそうです。
ただガスが永きに渡り止まっていた為
お風呂に不自由したとか。
私が避難所で食料をもらう為に
頭を下げまくった話しをすると
ハンカチを当てオイオイ泣かれました。
「辛かったねぇ」と。
そこに馴染のお客さんが
「俺のいた避難所では食物は沢山あったよ」
「いいなぁ」
「だけどね配る連中が不慣れでね」
随分混乱したみたいです。
「何日かしたらさ、関西の役人が応援で入ったのよ。
そしたらまぁ手際の良いこと。」
話しを聞くと関西淡路の教訓から
普段から非常時には
どうすれば良いか教え込まれていた様子。
同じ事は東北の震災でも後に教訓として言われています。
かの地は震災後色々な事例を元にテーマがあるそうな。
それをマニュアル化している様子。
特別な災害時
今回の様なものですね。
その時点では計画的に援助を続けるのは
まず困難であると言う事。
そらそうでしょうね。
天災はいつ来るかわかりませんから。
その場合、
「とにかく目の前にいる困窮者を助ける。」
これだそうです。
食べ物は特に。
早急に流通を復活させる事は分かっていますから
その間をしのげ。
計画的には無理との事。
勿論計画的に人口の分まで備蓄し
その配布計画まで立ててあるのならば問題はありませんが。
私は今回、そこに食料があるのにもらえなかった。
「避難所にいる人の分だけです。」
とか
「これは今日は配れません」
とか
そこに山積みしてある物が頂けななかった。
話しをしていて
また情けなかった思いが蘇りました。
行政は今回大変だったでしょう。
それはわかります。
しかし稚拙だった事は否めません。
今だにまだまだ
「これなんかおかしくない?」
と思えるような通達なり動きがあります。
現在でもそうですが
行政はあまり当てにしていません。
皆さん自力でなんとかしています。
ここ数日結構な震度で地震が起きています。
まだまだ気をぬけない状態が続いている事だけは
心得ていなければいけない様です。
おばちゃん、馴染さん
現在同じ感情をお持ちでした。
「震災の時よりも今の方が落ち込んでるよね」
そうですね。
なんとか現実をこなしてますが
気持ちは徐々に沈んで行くのを感じてます。