神がみの戀ひするひとはうら夭き徒し姿をその儘に逝く

うちで講義されていた先生がメナンドロスの希臘語を直接訳したものです。

「かみがみの こひするひとは うらわかき あだしすがたを
そのままにゆく」

「神々の恋する人は若くして死ぬ。」

こう表記すると印象が変わりますし

直接的でその真意が見えません。

一般的にはこちらの訳が多いですね。

多分ですが英訳からの出典なのでしょう。

その先生曰く

哲学上の知識などは歳をとっても身につける事ができる。
若くして始めなければいけないのは言語である。

この訳を見ると納得します。

日本語は圧倒的な感性を顕す事が可能な言語です。

この訳には漢字もそうですが、

旧仮名使いをする事によって

その先生の言葉を借りれば

「瑠璃のやうな」言葉となります。

まさに瑠璃です。

言語は時代と共に変化して行きます。

勿論それは我が国だけではなく

英語圏もそうですね。

「書く」行為から
「打つ」行為に変わってから
それは加速された印象です。

更に「絵文字」も加わって、
表現する幅が広がった様に感じますが、
実際はどうなのでしょう。

良く論議されるものに

「メールは手紙なのか否か。」

があります。

それに現在はLINEに代表される

クローズかオープンかは別としてのSNS。

「文字」を使って他者に意思を伝える場面が、

異様に多くなっています。

「文字」を使っての「会話」には

言葉の抑揚がありませんから

逆に私には難しいのです。

それはそれで良いのでしょう。

支持されればこそ、

広まって使われているのですから。

使い分けができる自分になれば良いのです。

しかし表題の言葉の美しさをわかる部分は、

必ず持っておかねばならない。

技術は確かに進歩して人間の生活を潤してくれた。

しかし2千年も前のメナンドロスの言葉に、

いまだに私たちが酔うのです。

この事実をどう解釈するのか。

答えは明白です。

今朝「宮城県」のヘルメットを被った

家屋調査士の方がゴミの山をかき分け

調査してらっしゃいました。

そして交差点を長野県警のパトカーが

横切ります。

わかってはいますが、なんとも不思議な光景です。

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