父の死から平成の個人的総括。

ずいぶん久しぶりに「書く」のは難しいのであるよ。



あれよあれよと言う間に平成も終わりの最終日。


もう桜も散りましたね。

市内では。

今年は桜を愛でる暇もなかった。

といいますか

今年は年初から色々ありすぎて

正月から今日まで

それこそ「あっ」と言う間でありました。


正月元旦早々、父が身罷りました。


昨年後半より具合が悪く入院していたのでありますが

大晦日より病院から呼び出されまして

詰めておりました。


元旦の夕刻先生から

「今夜夜半が山です」

と告げられ

父のベッドを挟んで会話していたのでありますが

何気なく見た父の顔が見る見る色を失っていく。


「あれ先生、顔色が変わりつつありますが?」


と尋ねますと


「こりゃいかん!」


で病室はいきなり戦場と化したのでありますよ。



ガラガラとデカイ機械を運び込み

看護師さんたちが

「ちょっとどいて!」

と私を退かせたと思いきや

先生の号令一下

心臓マッサージと人工呼吸を始めたのであります。


まぁある意味「修羅場」でありました。

心臓マッサージと言うと

何やら行う絵図らとしては

救命措置として「見れそう」なイメージですが

あれ

相当にすごい。

何がすごいかって?

父は年でありましたから

骨ももろい。


肋骨が音を立てて折れていくのですよ。

そらそうだ。

救命ではなくちょいの間の延命ですから

遠慮なし。

そして酸素を送り込む管

アルミ製の物ですが

それを挿入しようにも

うまくいかず血だらけ。



そのうち何やらのモニターの波形が

一直線になって

「もうよろしいですか?」

と先生。

「ありがとうございました」

と答えるしかありませんでしたな。


「5時28分ご臨終です。誠にお気の毒です。」

との挨拶をもらい

長かった父との親子生活は終わったのであります。


昭和の中途からの付き合いですから

振り返れば相当長い。

やっぱり病院の職員さんたちに見送られ

専用の出口を後にする時は

なんとも寂寥感が襲い

思いがけず落涙したのは不覚でありました。



正月は「迎えの船」に乗り込む人が多いらしく

予定していた葬祭場が満員御礼。

で急遽系列の会場に向かったのでありますが

時間も時間でしたから

その日は通夜もできず

仮通夜となりました。

親戚がたくさん集まってくれ

式の段取りを手際よくやってくれました。


親戚が引き上げた後

広い式場に私は寝たのであります。


何しろ背骨折っている身ですから

用意されていた部屋で布団が敷けない。

「一緒に寝ちゃえ」

で、持ち込んでいたサーマレストを広げ

モンベルのシュラフに潜り込んだのであります。

父と二人で寝たのは

子供の頃からするとずいぶん久しぶりでありました。


田舎の葬儀は式そのものよりも

後からやることが大変多いし大変。

毎週在所から田舎まで通い

ひと段落するまで忙しい日々が続きました。


その間にも時間は容赦なく流れ

子供の受験

その対応。

そしてその後の子供の生活を整えなければいけない。

そんな作業を切れ目なしでやっておりましたら


いつの間にか平成最後の日。


特段感慨もなくこの日を迎えたのでありますが

父は昭和 平成と二世代で身罷りましたが

わたしゃ昭和 平成 令和 と

三代にまたがる人生となります。

これも「なんだかなぁ」

と明治生まれの人の気分がわかる気もします。


私は平成元年に起業しました。


まだ若い身空で借金を背負い

思い返せば良く銀行も金貸してくれたもんだと

周りからずいぶん支えられていた自分を思うのです。


若かったのでしょう。

がむしゃらに働き

そら今盛んに言われる

「ブラック企業なんて可愛いものだ」

と思えるくらい働きました。

多少は美味しい思いもさせてもらい

思いっきり谷底にも転落し

今、超低空飛行の真っ最中です。


明日から令和。


私にとりまして

昭和 平成 が各々激動の時代でありましたから

来るべき時代がまた一つの区切りとして

多分この御代で終わるであろう我が身ですが

それをどう生きるのか。

まぁ楽しみでもあります。

子供のようですが

自分の可能性をまだ信じているのでありますから。


明日の今頃は多分新宿で焼肉食ってます。


自身でしか割れない積み重ねの日々はかけがえのないもの。話は多岐に渡ります。