子供との問答で考え込む私。結論。俺は本当に日本人か?戯言注意。

子供とテレビを見ていて

各界の著名人のインタビュー場面が

出て来たとする。

 

もちろん、その意見に賛同するかどうか

それは主観であるから

ここでは問題にしない。

 

問題なのは

インタビューされた政治家さんや

 

著名な方たちが使った言葉である。

 

「この言葉を?この使い方はおかしい」

と彼がいい出す。

 

で、こちらの顔を見る。

さも、私を試す様に。

 

まだ彼は若いのであり

私の様に海千山千、小波荒波の

シャバを渡って来たわけではないから

 

「言いたい事はわかるから良いんじゃ?」

 

との返事に納得しない。

 

曰く

公式な報告とも取られかねない

影響力を持つ発言が

これではいけない。

 

と、

私ら「大人」にしてみりゃ

どうでも良いじゃんと思われる事を

「若さゆえ」

である。

 

「アレがアレして」

 

の我々の常套句は彼らには通じない。

そこで一度付き合って見ることにした。

 

大昔、柳田國男先生が

「形容詞飢饉」

なる事を言ってらっしゃったのを

思い出した。

 

さらに

読んだ本の名は失念したが

それから派生して

その著者は

「文明とは形容詞である」

との名言を書いていた。

 

考えてみれば

文明が進化すればするほど

異国文化、

現代では明治期と違い

西洋一辺倒ではない

極めて多国籍な文明

つまり「形容詞」が溢れて来ている。

 

おかげさんで

他の品詞が使われなくなって

固有の文化が「瀕死」の際ではなかろうか。

との憂いが

 

そう、

憂国であるよ。

ホンマかいな?w

 

形容詞は元々我が国には少なかった。

その代わり副詞で補い

それが簡単に言えば侘び寂びに通じ

摩訶不思議な国と我が国をしていた。

と私は信じて疑わない。

ホンマかいな?w

 

それが徐々に我が物顔。

形容詞然としたものならまだしも

名詞が形容詞然と

使われている場面を嘆くのであるよ。

 

しかしだよ

古文を思い出して欲しい。

 

枕詞。

修飾語ね。

で、アレは「かかる」言葉が決まっている。

 

約束事の様に組み合わせがあり

それはおよそ800を超える数がある。

らしい。

 

これってさ

我々日本人が阿吽とか空気読むとか

本当は侘び寂びが超下手で

つまりコミュ障でさ

だから

決まりごと作っちまったとしたら

昨今の形容詞が溢れかえるこの状況は

これからの我が国を

より文化的に

いや文明を進化させる。

 

いや、させかねない。

 

と考えると

我が子の

「いや、これはおかしい!」

と古典的な尺度で日本語を考える

彼の頭が文明の進化の妨げともなりかねない。

 

これは正さねばならぬ。

 

と、思いきや

友人同士では

ちゃんと二刀流を使っているのであり

これは単に私ら大人の国語力を

試しているのであろうよ。

 

この年になって

品詞分解する羽目になろうとは。

もっと勉強しときゃ良かったねぇ。

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