自分に必要な「真っ当」な人間を見極められる私の偉さ!

宛のない手紙です。

 

私は恵まれている。

長いこと人間をやらせて貰っているが

その間に色んな人と出会い

そして別れて来た。

 

別れるではない。

「袂を別つ」と表現しないと

要らぬ誤解を招くからいけませんね。

 

人間には大きく別けて2種類いる。

 

良く言われる性善説と性悪説。

 

貴方は確信している様(さま)で

自分は性悪説と言い切った。

 

しかしどうだろう?

私は貴方程、

他者を思いやる人を私は知らない。

多分自分ではわかるはずはないだろう。

 

確かに貴方は物言いがはっきりしている。

誤解しないで欲しい。

それは生活を営む上での会話のことではない。

 

例えば自分と言う人間を

誤解させる曖昧さを決然と嫌い、

はっきりと指摘するのを指す。

 

その事はこの娑婆で、

それも地域意識、

また身内意識の強い地方のこの小さな町では

護身術としては間違いなく適切ではないだろう。

 

そして貴方は誠に曲がった事を嫌う

「そちも悪よのぉ」

が通用しない困った性格も

私が想像していた以上である。

 

先程「人を思いやる」と書いたが、

それは多分、

相手の事を思い遣ってではないのであろう。

貴方の人間としての心が希求するからだ。

 

しかし、その存在自体が、

人をどれ程安心させるのか

貴方は多分気がついていないだろう。

 

理不尽な物言いを上司から投げられても、

堂々相手の目を見据えた理に適った反応は

相手を畏怖させる。

 

それすらもわからぬ人達と仕事を共にしているのは

貴方の仕事への責任、

「真っ当」としてのそれであると推察する。

 

そんな貴方が私のそばにいる。

迷った時、考える暇もなく反応する心地良さ。

 

私は恵まれている。

 

その貴方が私から離れぬ様に、

しかし私も真っ当でなくてはならない。

それも実に私は「人」として有難いのであるよ。

 

誠に「生きる」妙味を有り難く頂戴している。

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