死を感じながら日々を送る非日常的な日常。老人介護の私的感想。

ここんとこ毎日超寒い日が続きます。

ここ九州でもマイナスを記録する日々。

 

そんな朝は電話かかってくるじゃないか?

 

と、まず心配するのですよ。

 

てのが

実家の独居の母。

流石に年が年ですからねぇ。

ヘルパーさんが朝入って

とか

近所の方が朝夕生存確認はしてくれてますが

それでもやっぱ心配なのです。

 

いや実を言うと

近い

それも極近い将来に

「かかって来る」

のは間違い無いのですが

その心の準備がまだできていないのですよ。

 

「死」と言う言葉を

 

現実に感じなければいけない時が来た

とは実は不覚にも

考えたこともなかった。

いや

頭じゃわかっていますよ。

でも現実味ない言葉ですよね。

普段の我々の日常生活

お付き合いの範囲では。

 

しかし

漠然とではありますが

ある予感はあります。

ここ最近

メッキリ母は老け込みました。

いや

元々年寄りなのですけどね。

更に。

その顔から感じること。

正直に言いますと

「こりゃいつお迎えが来ても」

との顔をしているのであります。

 

不思議なもので

人間の生命力は外見からも

そこそこ測れるものですね。

 

確かに昨年末転倒して

入院し、そして退院。

しかし患部は良くなろうとも

それとは別に

今の母の顔が生気を取り戻し

人間としての生命力をも

少しは取り戻すことなど

多分ないでありましょう。

そして

それは顔に見事に表れます。

 

実はね

これ書いていても

胸が高まる私がいるのです。

 

結構辛いですね。

なぜ辛いのか?

それは「死」の概念が

私には薄いから。

 

自分が結構な年になり

それでも自分の親が生きている。

こちらが齢を重ねれば重ねるほど

様々な思いが募って行きます。

 

私が子供の頃の母。

私が学生の頃の母。

私が家庭を持った頃の母。

それらが自分が親となって

初めて持つ感慨となり

自らの経験を重ね合わせ

残酷にも

「我が母親は褒められた親ではなかった」

と彼女とロールプレイングしながら

思い知らされて行く時間が

本当に積み重なって行くのです。

 

そして介護生活に入った頃の母。

介護生活に入ってからは

時間の流れが早くなります。

何しろ環境を整えねばなりませんから。

経験のないそれに七転八倒している内にも

容赦無く母は年老いて行きます。

そしていつ電話が鳴るか。

 

こんな状況はここ近年でしょう。

 

人間誰しも現状が続くと考える。

生きている者は

それは永遠にそこにあると幻想、

馬鹿げた無意識を持っている。

 

多分

多分ですが

この高齢社会は

今まで人類が経験したことのないもの。

 

それが証拠に昭和の初期の

平均的な男性の寿命は50年少々。

つまり自分が若い内に親をなくす。

それが一般的だったと想像します。

 

ところが科学の発展と共に

その寿命が伸び続け

今ではみなさんご存知の通り。

 

それが良いことなのか

私には正直答えは出せない。

いや

出すのをためらう。

 

正直に白状すると

 

介護なり、そのケアは

長引けば長引くほど

物理的にも

金銭的にも

心理的にも

介護する側を締め付ける。

それはボディブローの様に

後から後から効いてくる。

 

この現実を

「いつまでも長生きしてね」

と美辞麗句で飾るのは

到底無理なのです。

 

そりゃ遠い将来に

「こんなバァさんもいたよな」

と現実味のない話題としては

出て来るにしても

直近の私らにしたら

様々な思いと

現実にやらなきゃいけない事が

いっぺんにやって来て

一歩距離を置いて見ることなど

到底できない。

 

「あれどうしよう?」

「これどうしよう?」

「金どうしよう?」

 

現実はこれです。

人間歴史には社会的にも

「介護」なんてなかったし

動物の世界では

「介護」なんて聞いた事がありません。

こりゃDNAに対する人類の挑戦かも。

 

すいません。

最近

「心ここに在らず」

で落ち着いて書けないのですよ。

視野狭窄でおもしろネタが

多分転がっているはずなのですが

目に入らない。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です