マスコミ煽動からネット煽動の時代を考える。

マスコミ先導。

 

もしくは「煽動」。

 

これはいつの時代にでも存在し

真偽を知らぬ大衆は

これに迎合し、憤り、

また踊らされ

そしてそれが「民意」となり

あらぬ方向へ国が、

また価値観が変わっていく。

 

これは方向性を持つ意識によって、

また事実をうがった視点で伝えることでも

起こすことは可能である。

ポピュリズムの形成は比較的容易である。

勿論、前提条件は当然ある。

 

今、我が国のある国への

国民感情まで変化させようとしている

大問題となっている端緒も

朝日新聞の誤報によって引き起こされた。

これは「事実」である。

当該新聞社が訂正お詫び記事を掲載した。

 

それについては流石に大新聞である。

今では

「カエルの顔に」との印象は否めない。

 

しかし

逆にそれを逆手に取って

目的を達成した方も

歴史には多い。

 

媒体が瓦版から新聞、

新聞からテレビ、

テレビからネットに変わり

次に何が来るのか

そろそろ話題になりつつある現代

 

そのネットでも「扇動」を実感する。

 

ネットでも「動画」がテレビの

最大にして最強のライバルであるが

これをマスコミと位置付けることはできない。

なぜならその発信している主体が

「私個人」であるのだから。

もちろんメジャーもあるが

「面白可笑しく我が意を得たり」

で観られているのは

圧倒的に「個人」物である。

 

なぜそれが問題なのか?

両刃の剣だからである。

例えば起きた事例に対し

ネット社会で批判の動画が上がる。

しかしそれは裏付けが取られたものではない。

第一取材をしていないのだから。

もし根拠があるとするなら

それもネットからかも知れぬ。

「足」で取って来ていない可能性も拭えない。

 

我が国では「報道の自由」が保証されているが

それには「事実」が担保されていなければならない。

ゆえにそれが広範囲にできる規模か

実績を持つものが公の報道機関として認可され

国の中枢での質疑応答にも参加できる。

 

それはどこの国でも同じであろう。

ホワイトハウスの報道官に、

血気盛んな隣のおっさんが質問する状況は

観たくても見れないのである。

隣のおっさんがいくら英語が

堪能であっても。

あ、

隣のおっさんが堪能なのは

熊本弁であった。

興奮するとバリバリである。

時としてバイリン?を思わせる。

 

当然我が国でも官房長官の記者会見が

毎日行われており

「国民」を代表して疑問に思うことを

マスコミ各社が

政府の代弁者たる官房長官に尋ね

答えをいただく。

それを持ち帰り

各社「色」をつけて報道する。

 

事実を知ったとしても

主観によって

偏向報道なる事態も発生する。

末梢枝葉を誇張し

焦点を論点から逸らす事も可能である。

これも「前提条件ありき」である。

 

言わんや

個人が発信するものに

主観がないはずがない。

 

現在ネットの動画では

 

名古屋本社の在京新聞の女性記者の

官房長官への記者会見が良く上がっている。

 

概ね批判的な論調?上げ方であるが

これを「是」とするか「非」とするか。

 

確かに彼女の話し方は

私は生理的には受け付けない。

だが、しかし

あそこまで臆することなく

どんなにネットで叩かれようが

官房長官、他社に嘲笑されようが

「向かって行く」姿勢は

評価すべきである。

彼女の質問の真偽は別として。

 

思考の原資となる情報は

 

多い方が良いに決まっている。

更に思考の選択肢も同様である。

多元的な視点、選択が与えられて

然るべしと考える。

 

そしてネットの個人発信。

これも歓迎すべきことである。

 

確かに主観に満ち満ちているが

その「主観」を聞くのも

1つの選択肢として捉え

社会のウネリを感じるべきである。

 

そこで求められるのが

個人の資質である。

自分のアンカーを持たねばならぬ。

これを持たねば「流される」しかない。

 

二極化が叫ばれて久しいが

 

その傾向はますます顕現化するであろう。

ゆえに個人はますます研鑽を積み

ことの是非を

自ら判断しなければならないのである。

 

当時最新のツールを使い

「民意」を先導、扇動、誘導し

国民に悲劇をもたらした例は

古代史、近代史、現代史

枚挙にいとまがないのは

ご存知の通りである。

 

アイキャッチはYouTubeさんです。

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