久しぶりに頂いた「私信」。その宛名に感動した小さな幸せ。

最後まで読んでね。

以前私の所で講義をしていた先生から

手紙と葉書を頂戴した。

手紙は近況のお知らせ。

葉書はこれからご自分の

「考察」される方向についてのお知らせであった。

これは公に決心された事を表明するものである。

先生らしくプリンターのそれではなく

「印刷」された物であったので

余計にそれを感じさせる。

葉書の内容については多少の予感はあったものの

大層驚いた。

今までは中国

それもレッグスや西欧訳の左氏傳等

背負う文化の違いから来る

我が国の解釈のそれの微妙な差異についての講義であった。

大変面白かった。

先生は古代中国語も堪能で

その原意での解釈も現代のそれとは大きく違い

「目から鱗」が多く、

この歳となって知らかった

いや、知ろうともしなかった事を情けなくとも思った。

言い訳になるが

中国哲学は後年、

いやはっきり言えば「中年」から始めたのであり

それは独学と言うよりは

「雑学」に近いものであったから

体系的に教えを請える大切な場でもあった。

元々全く違う地域が専門であったから

それは尚の事である。

それも今回の震災により叶わぬ事となってしまった。

話を戻すと

先生は日本の近代への考察へ向かう旨の事が書いてある。

初めは「比較」からであろうが

「いよいよか」との思いがある。

近代、現代のそれは現在進行形であるから

これから先々、論戦等苦難が予想される。

ところで本題であるが

先生から封書と葉書を頂いたのであるが

「私信」でその類を頂くのは他からでも稀である。

流石に今回震災で多くのお見舞いを封書で頂いたが

先生の様な内容を「私信」で頂く事は

本当に稀である。

真摯な学徒のそれは

内容が内容だけに

一気に大正、昭和の気分とさせる。

少し黴の匂いのする

書棚の上に長い間仕舞い込まれていたそれを開き

思い出しながら懐かしさに読みふける。

そんな気がした。

そんな葉書、手紙であるが

宛名にまた唸らせられた。

宛名の敬称の左下に脇付。

本当に久しぶりである。

メールは毎日相当数来る。

用件は確かに伝わる。

こちらもメールで気軽に返す。

そんな日常が当たり前になっている。

現状に慣れきった所にこれである。

正直に感動した。

それも万年筆での丁寧な文字。

私も何本か万年筆は持っているが

もう相当年使ってはいない。

大いに恥ずべきである。

探せばどこかにある筈の丸善の原稿用紙。

まだ瓦礫の山である我が家から

無性に「発掘」したくなった今日であった。

身近にこの様な「私信」を下さる人がいる幸せ。

それを感じる自分は少しは「まとも」でもあるか。

画像は展示車のない「車」のショールーム。

まだまだ復旧には時間がかかりそうである。

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