「判で押した生活」地味な積み重ねは己の未来を開く。

地味で単調な生活の繰り返し。

これは難しいですね。

しかしこれを習慣化出来ていれば、

そう、若い頃

高校生時代に。

私の生き方が大きく変わっていたでしょう。

生活に自分のリズムを定着させる。

一つでもやり残したら

「トイレに行き損なった」

と思える位に。

これは大人になったから

考えられる事で

若い頃は俗事でやりたい事も沢山ですし

その様な習慣が大事とは思いもよらぬ事ではあります。

「もし」が使えるのなら

私の自堕落だった若い頃の生活にやっておけば

現在こんなに苦労しなくて済んだと痛感しているのです。

まず基礎的な学力をつける為に

1日の時間の中に必ず勉強する時間を習慣化させる。

これはとても大事でした。

試験前の「一夜漬け」は誰しも経験する事ですが

それはそれでやる事もあるかと思います。

その作業は一年を通した学業の中で「稀」な事と

位置付ける事が可能となります。

地味に少しずつ毎日の中に勉強する時間を

取り込んで厳格に習慣化していたなら

考え方も「正道」であり

その後、大学、社会に出た時も

「真っ当な」大人になっていた事でしょう。

それから先、長く続く人生の考え方を

紡ぐ端緒となった事は疑いの余地がありません。

誠に基礎的な学問を

レンガの様に積んで行く重要性を知っているならば

考え方も「然り」なのです。

現在の自分に足りない所に思いを致せば

とても明白な事です。

同時にやっておかなければいけなかった事。

読書です。

結構読んでいたと自分では思っていましたが

全然足りない。

全く足りていない。

現在の私の頭に残っている「在庫」は

愕然とするくらい貧弱です。

それは現在の私の思惟方法を

肉付けしている要素から見れば明らかです。

様々な本が昔から出版されており

それを片っ端からとは言いませんが

興味あるものは手当たり次第読んでおくべきでした。

それこそ

「蚕が桑を食むように」。

人間は忘れます。

現在でも本を読んだら

読んだ先から忘れて行きます。

私は忘れても良いと思うのです。

100冊読めば、その内1冊でも忘れ得ぬものがある筈です。

それで良いと思います。

正当に勉強を習慣化させた頭に

自分に取っての「良書」との出会い。

悪い筈など無い。

必ずや血と肉になるのです。

先日ある国立の准教の先生とお話しましたが

話していて背筋に寒いものが走りました。

所詮「付け焼刃」では太刀打ち出来ませんし

すぐにボロが出ます。

この年ですからボロが出た時の惨めさは

筆舌に尽くしがたい。

それこそ「穴があったら」です。

彼の会話は全て後付けの知識、

考え方ではないのです。

違いは何処にあったのか。

頭の出来が違う事は勿論ですが

若かりし頃

先の事におぼろげながら気がつき

粛々とそれを実行してきた人との違いです。

「判で押したような日々の積み重ね」

これは何も学校の勉強に限った事ではありません。

要はそれに思い至り

謙虚にそれに取り組む姿勢と考えます。

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